聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 05月 15日 (日)

マルコの福音書11:1-11(9)
主の御名によって来られる方

 イエス様と弟子たちがエルサレムの近くに来た時、イエス様は二人の弟子を向こうの村へ遣わされました。そこに行って、まだだれも乗ったことのない子ろばをほどいて、引いて来るように命じられました。もしだれかが、「なぜそんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです」(3)と返事すれば許してくれると言われました。

 弟子たちがイエス様に聞き従った時、イエス様の言われたとおりに子ろばの持ち主は許してくれました。弟子たちは、子ろばをイエス様のところに引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けました。そして、イエス様はそれに乗られました。イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城すると、多くの人たちが自分たちの上着と葉の付いた枝を道に敷きました。これには王に対する敬意と歓迎の意味があります。人々はイエス様を王として迎え入れ、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫びながら、熱く歓迎しました。人々はイエス様を、自分を救ってくださる王として迎え入れました。エルサレムはイエス様への讃美で満ち溢れました。イエス様は王として民に崇められ、ほめたたえられながらエルサレムに入城されました。

 エルサレム入城のために子ろばを引いて来るように命じられたイエス様は、世界のすべてがご自分の所有であることを示されました。弟子たちはイエス様の御言葉に聞き従った時に、はじめてそれを知ることができました。ろばに乗って入城されたイエス様は平和の王で、謙遜と柔和の王です。このような王であるイエス様には、どんな人でも近づくことができます。イエス様は私たちを罪と死から救ってくださる王です。イエス様を王として迎え入れ、イエス様に治められる人は、平和の中で生きるようになります。



適用:イエス様に治められていますか

一言:謙遜と平和の王



2022年 05月 16日 (月)

マルコの福音書11:12-19(17)
あらゆる民の祈りの家

 翌日、イエス様ご一行がベタニアを出た時、イエス様は空腹を覚えられました。遠くにいちじくの木があるのをご覧になり、近づいてみると、葉のほかには何もありませんでした。いちじくのなる季節ではなかったからです。それなのに、イエス様はその木に向かって呪われました。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」(14)。イエス様はなぜ、罪の無いいちじくの木を呪われたのでしょうか。実の無いいちじくの木は、エルサレムの宮を象徴的に表しています。当時、宮で行われていた礼拝と儀式は華やかでしたが、神様が望んでおられる実は見つけることができませんでした。実の無いいちじくの木を呪われたのは、実を結ばなければさばきを免れないことを教えるためでした。

 イエス様はエルサレムに入城し、宮に入られました。そこには売り買いしている者たちや両替人、鳩を売る者たちがいました。これらはもともと、遠くから訪ねて来る巡礼者の便宜をはかるためでした。ところが、現状は商売人と宗教指導者が結託して、莫大な利益を得ていました。イエス様は腐敗している宮をご覧になり、心を痛められました。そして、宮をきよめられてから、「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」(17)と叱られました。宮はあらゆる民が祈る家です。宮は、神様の民が神様を礼拝し、信仰が深まる場所でなければなりません。私たち一人一人は聖霊が住まわれる聖なる宮です(Ⅰコリ3:16)。イエス様は私たち一人一人が腐敗したところをきよめ、あらゆる民のために祈る家として、自分を捧げることを願っておられます。



適用:きよい体と心で神様に仕えていますか

一言:祈りの家



2022年 05月 17日 (火)

マルコの福音書11:20-25(23)
立ち上がって海に入れ

 翌日、イエス様ご一行は通りがかりに、前日イエス様が呪われたいちじくの木が根元から枯れているのを見ました。ペテロがそれに気づいて、驚きながら言いました。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています」(21)。ペテロは不思議でたまりませんでした。除草剤をまいたのでもないのに、どうやって一日で枯れてしまったのか知りたかったのです。

 イエス様は「神を信じなさい」と言われました。いちじくの木が枯れたのは、神様の全能の力によるものです。イエス様は神の御子なのでそんな力を持っておられます。また、神様を信じる信仰があったので、お言葉に力がありました。イエス様は、誰でも神様を信じるなら、そのような力あるわざを行なうことができるという望みを与えてくださいました。イエス様は誰でも「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります」と約束されます。山が海に入ることはあり得ないことです。しかし、生きて働いておられる神様を信じる信仰があれば、そんなことにも挑戦することができます。信仰の働きをする際、一番の壁は、時々押し寄せてくる疑いの心です。疑いを退けるためには、祈りを持って戦わなければなりません。祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなければなりません(24)。疑いを退けて最後まで信仰の戦いをすれば、山が立ち上がって海に入るような神様の栄光を見ることができます。

 祈り生活においての一番の壁は、赦せない心があることです。赦せない心で祈れば、神様に答えられません。だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦してあげるべきです。そうすれば、神様も私たちの過ちを赦してくださり、祈りに答えてくださいます。



適用:目の前にどんな山がありますか

一言:立ち上がって海に入れ



2022年 05月 18日 (水)

マルコの福音書11:27-12:12(6)
ぶどう園の農夫のたとえ

 宗教指導者たちは、イエス様に何の権威によって宮をきよめているのかと問い詰めました。それに対して、イエス様はヨハネのバプテスマは天から来たのか人から出たのかと尋ねました。もし、天から来たと言えば、ヨハネを認めてバプテスマを受けなければなりません。しかし、そうなると、なぜこれまでヨハネを信じなかったのか、と問われることになります。反対に、もし、人から出たと言えば、ヨハネを認めないことになるので、ヨハネを預言者だと信じている群衆から非難される覚悟をしなければなりません。彼らは一言も答えることができず、「わかりません」と言葉を濁しました。権威というのは、ある組織や団体から与えられるものではなく、天から来るものです。イエス様も、バプテスマのヨハネも、天からの権威に頼って神様のみわざに仕えました。

 イエス様は宗教指導者たちを教えるために、ぶどう園を農夫たちに貸した主人のたとえ話をされました。初めは、喜んで感謝しながら働いていたはずの農夫たちが、後から態度を豹変させてしまいます。なぜでしょうか。ぶどう園で一生懸命働いているうちに、自己義が生じてきたからです。自分のためにぶどう園を作り、与えてくださった主人に対する恩を忘れ、ぶどう園が主人のものであることを認めようとしませんでした。主人との正しい関係を拒み、貪欲になって、跡取りである息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしようとしました。主人はやって来て、自分の愛と忍耐と信頼を徹底的に拒んだ農夫たちを殺して、ぶどう園をほかの人たちに与えます。収穫の一部を主人に返すということは、主人との関係性を維持する唯一の方法です。主人は、収穫の一部よりも、関係性を重要視しています。イエス様はたとえの結論として、ご自分に関する預言を言われました。イエス様は貪欲な宗教指導者たちによって十字架で死なれます。しかし、「家を建てる者たちが捨てた石が、要の石となった」という御言葉通りに、イエス様は死に打ち勝ち、よみがえられて、救いのみわざにおいて絶対に必要な要の石となられます。



適用:神様に何を返していますか

一言:感謝と敬い


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