聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 05月 19日 (木)

マルコの福音書12:13-27(27)
生きている者の神様

 宗教指導者たちはイエス様の言葉尻をとらえようと、カエサルに税金を納めることは律法にかなっているかどうか質問しました。これは、ローマの支配下にあった当時のユダヤにとって敏感な問題でした。イエス様がどちらを選んだとしても罠にはめられる問題でした。しかし、イエス様はデナリ銀貨を持って来させて、「これはだれの肖像と銘ですか」と言われました。彼らは「カエサルのです」と答えました。するとイエス様は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。この世の権威も神様が立てられたものなので、従わなければなりません(ロマ13:1,2)。一方で、神様のものは神様に返さなければなりません。宗教指導者たちはカエサルに納めるべき税金も、神様の御前で果たすべき信仰的な義務も、怠っていました。形式的な信仰生活をしていました。イエス様はそんな彼らに、この世の民として、また、神の国の民として果たすべき義務と責任について教えられました。

 サドカイ人たちは、現実味のないドラマのような話を持って来ました。当時は家を絶やさないために、兄が子を残さず死んで妻を後に残した場合、弟が兄嫁を妻に迎えて子をもうける制度がありました。サドカイ人たちはその律法を逆手にとって、7人とも同じ女性を妻にすることを仮定しました。彼らは自分たちの目的のために奇妙な話を作り出しました。これを通して、復活はあり得ないことで、あってはならないことだと主張したのです。イエス様は、彼らがよく知っている出エジプト記のモーセに現れた箇所を引用して、復活について説明されました。神様は、ご自分を「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と紹介されました。「…の神だった」ではなく、「…の神である」と現在形で話されています。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」。神様のうちにいる人はみんな生きています。信じる者には、死に打ち勝ち、復活するという望みがあります。



適用:どんな望みを持っていますか

一言:復活への望み



2022年 05月 20日 (金)

マルコの福音書12:28-37(33)
主を愛する、隣人を愛する

 律法学者の一人が、イエス様とサドカイ人たちが議論するのを聞いていました。イエス様が難問に見事に答えられたのを見て、イエス様に尋ねました。「すべての中で、どれが第一の戒めですか」。イエス様は、第一の戒めは、唯一の神様を心といのちと知性と力を尽くして愛することで、第二の戒めは隣人を自分自身のように愛することだと答えられました。それに律法学者は同意し、唯一の神様と隣人を愛することは、どんな全焼のいけにえよりもすぐれているとも言いました。彼の言っていることは、どんな宗教儀式や行いよりも愛がはるかにすぐれているということです。イエス様は、彼が賢く答えたのを見て、彼は神の国から遠くないとほめてあげました。神の国が近いのは確かですが、まだ得てはいませんでした。これは、実際に愛を実践しなければならないことを暗示しています(ルカ10:25-28)。

 イエス様は律法学者たちに、どうしてキリストをダビデの子だと言っているのかと質問されました。「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで』」(36)。イエス様は詩篇の御言葉を引用して、ダビデがキリストを主と呼んでいたことに基づいて、キリストの、神の子としての本質を理路整然と説明されました。イエス様は、聖書と真理に精通していました。神様を愛し、隣人を愛することが、律法の核心であることを知っている人は、神様の御心を知っている人だと言えます。また、最も知恵ある人です。愛が一番大事であることを知って実践する人に神の国が臨まれます。



適用:主と隣人を愛していますか

一言:愛しましょう



2022年 05月 21日 (土)

マルコの福音書12:38-44(44)
乏しい中からすべてを投げ入れました

 イエス様は、律法学者たちの悪い影響を受けないように気をつけるべきだと言われました。彼らは長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされることが好きです。会堂で上席に、宴会で上座に座りたいと思います。彼らは人々に認められ、敬われることを願いますが、実生活ではやもめたちの家を食い尽くしました。神様にささげる祈りではなく、人々にほめられるための見栄を張った長い祈りをしました。こういう人たちは、神様の前でより厳しい罰を受けることになります。

 イエス様は、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられました。多くの金持ちがたくさん投げ入れていました。金持ちたちは見せびらかすように、時間をかけて音を立てながらお金を入れていました。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚(1デナリの1/64)を投げ入れました。百円玉を1,2枚投げ入れた位でした。イエス様は弟子たちを呼んで、この貧しいやもめがだれよりも多く献金したと彼女をほめました。金持ちたちはあり余る中で悠々と献金していました。しかし、貧しいやもめは少ない金額でしたが、彼女の持っているすべてでした。彼女は信仰によって、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを神様にささげました。

 律法学者たちと金持ちたちは、人に認められたくて、見かけだけの宗教生活をしていました。反対に、貧しいやもめは、人々の中で弱く、低く、目立たない存在でしたが、心を尽くして神様を愛して仕えていました。心を尽くして神様を愛し、仕える信仰生活をする時、喜びと感謝が溢れて来ます。



適用:やもめのように献金していますか

一言:このやもめが誰よりも多く投げ入れました


<<(1)    前のページ(7)    8    次のページ(9)    (14)>>

聖書別日ごとの糧