聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 07月 03日 (日)

マルコの福音書 14:1-9(6)
わたしのために、良いことをしてくれたのです

 イエス様がツァラアトに冒された人シモンの家におられたときでした。シモンは自分を癒してくださったイエス様とその弟子たちを食事に招きました。そのとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエス様の頭に注ぎました。5節をみると、その香油は三百デナリ以上する高いものでした。三百デナリとは、労働者の年俸に匹敵する金額です。その女がこんなに高い香油をイエス様の頭に注いだのは、イエス様から頂いた御恵みと愛に、心から感謝しているからです。ところが、何人かの者は憤慨しながら、それは無駄なことだと言いました。その香油を売って貧しい人たちに施すべきだと、その女を厳しく責めました。

 しかし、この女は、イエス様のために、良いことをしてくれたと言われました。貧しい人たちはいつもあなたがたといっしょにいるので、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、イエス様はいつもあなたがたといっしょにいるわけではありませんと言われました。イエス様は彼女がご自分の埋葬の用意を前もってしてくれたことを認められました。また、福音が宣べ伝えられる所では、彼女のした事も彼女の記念として語られると言われました。人々は、彼女のやったことを無駄だと言ったように、私たちのイエス様への献身をも無駄だと言います。しかし、イエス様に捧げた私たちの献身を、イエス様はすべて受け取ってくださいます。それだけではなく、私たちの献身を永遠に覚えていてくださいます。イエス様への献身は決して無駄にはなりません。



適用:イエス様への献身を無駄だと思っていますか

一言:いいえ、良いことです



2022年 07月 04日 (月)

マルコの福音書 14:10-26(24)
契約の血

 イスカリオテ・ユダがイエス様を売ろうとして祭司長たちのところに出向いて行ったとき、イエス様は弟子たちに過越の食事をする場所を用意させました。そしてイエス様は、弟子たちと過越の食事をしているとき、弟子たちのうちの一人がイエス様を裏切るという衝撃的なことを言われました。すると、弟子たちは「まさか私ではないでしょう」と次々にイエス様に言いだしました。イエス様がこのことを言われたのは、イスカリオテ・ユダに悔い改める機会を与えるためでした。

 イエス様はパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「これはわたしのからだです。」これは十字架の上でイエス様の体が裂かれて苦しみを受けることで、弟子たちがいのちを得ることを意味します。また、イエス様は杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らに与えられました。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」と言われました。「契約の血」とは、血をもって契約を保証するという意味です。過越の小羊の血が、エジプトに下された十回目の裁きからの救いを得させたように、イエス様の十字架の血は、罪による死の裁きからの救いを与えるという契約の血です。イエス様が私たちのために十字架の上で血を流されたことを信じるとき、その契約どおりに、私たちに罪の赦しが与えられます。

 イエス様の十字架は私たちのいのちのパンであり、罪の赦しが与えられる契約の血です。イエス様の十字架を見上げるとき、私たちには豊かないのちが与えられ、罪の赦しの御恵みを頂きます。



適用:罪の赦しが必要ですか

一言:主の契約の血を飲みなさい



2022年 07月 05日 (火)

マルコの福音書 14:27-42(36)
あなたがお望みになることが行われますように

 イエス様はゲツセマネという場所に来て、人類のすべての罪を担う十字架の重みで、深く恐れもだえ始められました。そのとき、イエス様は神様の御前に出て行き、祈られました。人と同じ肉体を持ってこの世に来られたイエス様にとって、十字架にかかることは、肉体的だけでなく、霊的にも死ななければならないこと、つまり父なる神様との関係が断絶されることを意味していました。それは、絶対に飲みたくない杯でした。それで、イエス様は父なる神様に、この杯をわたしから取り去ってくださいと祈りました。しかし、「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」とも祈られました。これはイエス様ご自身の心を、父なる神様のみこころに従わせる霊的な戦いでした。

 イエス様が祈りの戦いをしているとき、弟子たちは眠っていました。イエス様は「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われました。シモン・ペテロは、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」と言っていた張本人でしたが、さっそく誘惑に負けて祈りませんでした。イエス様は、再び祈りに行き、父なる神様に三度も祈られました。一度目の祈りの時には、十字架の重みで、悲しみのあまり死ぬほどつらかったのです。しかし、父なる神様の御前で二度三度と、祈られることで、十字架の苦い杯を飲むことができる力と勇気が得られました。私たちにも苦くて悲しくて恐れ悶えるしかない十字架刑のような杯を飲まなければならないときがあります。そのとき、私たちはイエス様のように、父なる神様の御前で何度も祈ることで、その杯を担う力と勇気を得ることができます。



適用:目の前に飲むのが難しい杯がありますか

一言:祈りましょう!



2022年 07月 06日 (水)

マルコの福音書 14:43-52(49)
こうなったのは聖書が成就するためです

 イエス様が弟子たちとまだ話しておられるうちに、イスカリオテ・ユダが武装した群衆といっしょに現れました。ユダは自分が口づけをするその人を、捕まえて、しっかりと引いて行くように、前もって彼らと決めていました。それで、彼はやって来るとすぐに、イエス様に近寄って、「先生」と言って、口づけをしました。すると人々は、イエス様に手をかけて捕らえました。そのとき、イエス様のそばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としました。

 イエス様は武装した群衆を追い払う力を持っておられる方です。天の御使いの軍団をも動員することができるのです。しかし、イエス様は何も抵抗せずに、捕らえられました。なぜでしょうか。「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」と言われました。イエス様が宮で群衆に教えていたときに捕らえられなかったのも、今こうやって捕らえられていることも、聖書のことばが成就するためでした。

 3年半、愛をもって教えて来た弟子たちはみな逃げてしまいました。そんな彼らをご覧になるイエス様の心境はどうだったでしょうか。どれだけ心を痛めたことでしょう。このように心を深く傷つけられたり、受け入れ難いことが起こったりするとき、私たちは気落ちしてしまい、激しく、感情のままに行動しやすくなります。しかし、イエス様は聖書のことばと父なる神様のみこころを考えました。すべてに対して神様の御旨があることを堅く信じ、黙々と十字架の道を進まれました。



適用:目の前の苦難に、驚き戸惑っていますか

一言:聖書のことばが成就するためです



2022年 07月 07日 (木)

マルコの福音書 14:53-72(72)
思い出したとき、彼は泣き崩れた

 人々はイエス様を大祭司のところに連れて行きました。そのとき、ペテロは遠くからイエス様の後について、大祭司の家の庭の中まで入って行きました。彼は下役たちといっしょに座って、火にあたっていました。そのとき、祭司長たちと最高法院全体は、イエス様を死刑にするための証拠をつかもうと努めましたが、何も見つかりませんでした。イエス様に不利な偽証をした者は多かったのですが、証言が一致しませんでした。イエス様は、彼らの偽証に対しては、黙ったまま、何もお答えになりませんでした。しかし、「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」と尋ねられた時には、「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」とはっきりと答えられました。すると、そこにいた人たち全員でイエス様は死に値すると決めました。

 大祭司の女中のひとりが来て、イエス様の弟子のペテロに気づきました。しかし、ペテロはそれを否認しました。また、女中が「この人はあの人たちの仲間です。」と言い出すと、ペテロは再び否認しました。三度目には、のろいをかけて誓い始めました。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴きました。そこで、ペテロは、イエス様のおことばを思い出し、泣き崩れました。ペテロは自分自身のことが分かっていませんでした。しかし、イエス様はペテロのことをよくご存じでした。彼の弱さを知っておられ、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(14:38)と言われました。彼がイエス様を否認することを知っていながら、彼を罪に定めたりもしませんでした。ペテロはこのイエス様の愛を思い出したとき、悔い改めの涙を流しました。私たちはいつも目を覚まして誘惑に陥らないようにするべきです。そして、たとえ私たちが誘惑に陥ってしまったとしても、私たちの弱さをよく知っておられ、罪に定めないイエス様を、その愛を思い出し、イエス様のもとに帰って行くべきです。



適用:ペテロの失敗から何を学びますか

一言:祈り


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