聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2020]

2020年 03月 02日 (月)

ルカの福音書9:1-9(6)
 至る所で福音を宣べ伝え

 イエス様は、旅には何も持って行かないようにと命じられました。杖も、袋も、パンも、金も、下着も、どれも旅行の必需品です。それにも関わらずイエス様はこれらを持って行かないように言われたのです。それは、ただ生きておられる神様だけに頼るようにするためでした。また、どの家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさいとイエス様は言われました。これは、食べる問題、寝る場所の問題に気を取られずに、ただ使命を果たすことだけに集中しなさいという意味です。福音を受け入れない者については、どんな姿勢を持つべきでしょうか。「足のちりを払い落とす」、つまり、やることはやったので、後は主にお任せする、ということです。悔しい思いをしたり、意地悪い考えを持ったりせずに、ただ主に委ねてまた次に向かって出かけるのです。
 弟子たちは出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直しました。ユダヤ全域に同時多発的に、素晴らしい聖霊の御わざが行われました。国王ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑しました。彼は自分が首をはねたヨハネがよみがえったのではないかと恐れました。弟子たちの伝道の働きは、当時ヘロデ宮廷を震撼させるほどの大きな社会的波紋を呼び起こしました。

適用:福音を熱心に伝えていますか

一言:至る所で



2020年 03月 03日 (火)

ルカの福音書9:10-17(16)
 五つのパンと二匹の魚を取り、祝福して

 そのとき、イエス様は何と言われましたか。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」弟子たちの状況をよく知っておられるイエス様がこのように命じられた理由は何でしょうか。それは、彼らを牧者として訓練するためでした。牧者はどんな状況の中でも責任をもって、羊たちを食べさせる者です。私たちは自分のことを先に考えてしまう時があります。現在の自分の状況や都合からして、羊たちを食べさせることは到底無理だと思う時があります。しかし、主は、私たちがどんな状況に置かれていたとしても、羊たちを食べさせる牧者になることを願っておられます。
 弟子たちには五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。ところが、イエス様はそれを取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆を食べさせました。五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人を食べさせる奇跡が起こりました。羊たちに対する責任感と、生きておられる神様に対する信仰をもって、五つのパンと二匹の魚を捧げるとき、神様は私たちを用いて、この時代の兄弟姉妹たちを食べさせる御わざを自ら行なわれます。

適用:五つのパンと二匹の魚を主にささげていますか

一言:みな、食べて満腹した



2020年 03月 04日 (水)

ルカの福音書9:18-27(20)
 あなたがたは、わたしをだれだと言いますか

 ペテロが答えて言いました。「神のキリストです。」つまり、神様が約束してくださり、神の時になって、神様が送ってくださったキリストであるという意味です。彼はイエス様がどんな方であるかを正確に知っていました。そして、それを口で告白しました。人々は、心で信じるだけで良いのではないか、別に口に出して信仰を告白する必要はないと思ったりします。しかし、信仰告白は決断の表れです。これを通して私たちはイエス様と、揺るぎない絶対的な関係性を結ぶことができます。
 イエス様はキリストの道について教えてくださいます。キリストは、必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目によみがえられます。イエス様は、なぜこのような道を行くべきなのでしょうか。人間の根本問題が神様を離れてしまった罪の問題にあるからです。神の御子イエス様は、人間の罪の問題を解決するためにこの世に来られました。そして、解決して下さいました。そんなイエス様について行きたいと思うなら、私たちは自分を捨て、日々自分の十字架を負う必要があります。自分の基準、自分のやり方に執着せず、御言葉を読み、祈りながら主の御心を求め、聞き従うのです。これは一見すると、時間の無駄、あるいは損する道であるようかのように見えます。しかし、主のくびきは負いやすく、むしろ荷が軽くなり(マタイ11:30)、 自分のいのちを失うように見えて、実は、イエス様しか与えることの出来ない喜びと知恵、平安、御霊の実を得るようになるのです。

適用:私にとってイエス様はどんな方でしょうか

一言:神のキリスト



2020年 03月 05日 (木)

ルカの福音書9:28-43a(35)
 彼の言うことを聞きなさい

 山から下りて来たとき、山の下にいた弟子たちは子供にとりついた悪霊を追い出すことができないでいました。イエス様は、不信仰な、曲がった今の世だとお叱りになってから、その子をいやしてくださいました。信仰とは、経験や目にみえることがらより、ただイエス様の御名による権威を信じることです。弟子たちが不信仰だったのは、イエス様の御言葉を聞いても信じないで、自分の過去の経験に頼ったからでした。日々、イエス様の御声を聞き入れ、イエス様の御名による権威に頼るとき、悪霊を追い出し、人をいやすことができます。

適用:誰の言うことを聞いていますか

一言:イエス様



2020年 03月 06日 (金)

ルカの福音書9:43b-56(48)
 一番小さい者が一番偉いのです

 人々は高い地位に関心を持ちます。高い地位で享受できる光栄を得たがるからです。弟子たちもこのような心でいっぱいでした。ところが、イエス様は弟子たちに、偉大な者になるためには、イエス様の死とよみがえりの意味を悟るべきであると言われました。そして、子どものようなひとりを受け入れるべきであると教えられました。なぜなら、これこそイエス様についてゆく偉大な生き方だからです。まことに偉大なことは、高い地位を得ることではなく、イエス様から学ぶことです。イエス様を学び、子どものようなひとりを受け入れる人こそ、イエス様に似た偉大な人です。

適用:偉い人になりたいですか

一言:子どもを受け入れなさい



2020年 03月 07日 (土)

ルカの福音書9:57-62(60)
 イエス様について行く姿勢

 イエス様は別の人に「わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、その人は、「まず行って、私の父を葬ることをお許しください」と言いました。また別の人は、「主よ、あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言いました。自分の父親を葬ることほど大事なことが、この世にあるでしょうか。また、当分の間家族と会えなくなると思ったら、別れの挨拶をしに行くことも、当然なことです。それにもかかわらず、イエス様は死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせ、うしろを見ずに出て行って、神の国を言い広めるようにという厳しい言葉を返されました。彼らの共通点は、「まず」「ただその前に」と、イエス様について行くことに、条件をつけたことです。収税人のレビがイエス様に「わたしについて来なさい」(マタイ9:9)と声をかけられた時、レビは即座に立ち上がってイエス様に従いました。その結果、彼の家は、人々をもてなし、主と交わり、和解をもたらす場所に変えられました。様々な問題や人間関係を解決してから主について行こうとするならば、いつまでたっても主について行くことはできません。主が私たちのうしろのことさえも、責任を持ってくださる方であることを信じて、うしろを見ずに主の召されに応答しましょう。

適用:主について行こうとしていますか

一言:まず神の国を言い広めなさい


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