聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2004]

2004年 05月 13日 (木)

ヨハネノ福音書12:1-11
イエス様に香油を注いだ女

Ⅰ.香油を注いだマリヤ(1-3)
晩餐が行われた時、マリヤは非常に高価な香油をイエス様の足に惜しみなく注ぎました。そしてイエス様の足の下にひざまづいて、自分の髪の毛でイエス様の足をふきました。
過去、マリヤは香油の中に込めた自分の未来に対する夢と理想を愛しました。ところが、今彼女にはイエス様が最も尊い方でした。自分が最も大切にしていた夢と理想さえも惜しみなく、イエス様に注ぐほどに、イエス様を熱く、熱心に愛しました。彼女の献身と愛の香りは家中に満ち、全世界に広がりました。
Ⅱ.マリヤの献身を受け入れられたイエス様(4-11)
ユダはマリヤの献身を批判しました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人人に施さなかったのか。」イエス様よりお金を愛するユダには、マリヤの献身が無駄に思えました。しかしイエス様はマリヤの献身を受け入れて下さり、ご自分の葬られることに関連させました。そして福音が証しされる所には、マリヤの愛と献身の香りが証しされるように祝福されました。私達が主にささげる献身を世は理解できず無駄だと考えます。しかしイエス様は私達の献身を受け入れて下さり、主の救いの御業に尊く用いて下さいます。

祈り:主よ!私の心の中の世を愛する心を取り除き、マリヤのように主を献身的に愛することができる恵みを下さい。

一言:献身の香り



2004年 05月 14日 (金)

ヨハネノ福音書12:12-26
麦の真理

Ⅰ.ろばに乗って入城されるイエス様(12-19)
イエス様がエルサレムに入城される時、群衆がしゅろの木の枝を取って、歓迎しました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエス様はこのように歓迎を受けるためにろばに乗って入城されました。
ろばに乗って入城されたイエス様は、謙遜の王です。このイエス様を私達の心に受け入れる時、主は、私達を柔和と謙遜、愛と平和で治めて下さいます。
Ⅱ.麦が地に落ちて死ねば(20-26)
イエス様は、実を結ぶ人生を望むギリシャ人達に言われました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(24)一粒の麦は多くの実を結ぶことができる可能性があります。しかし多くの実を結ぶためには地に落ちて死ななければなりません。
誰でも自分の命を愛し、惜しむ者は自分の一つしかない命も失うようになります。自分の命を憎む者だけが永遠に保たれるようになります。

祈り:主よ!私の心に来て私を愛と平和で治めて下さい。私が麦の真理を実践して多くの実を結ぶように助けて下さい。

一言:死ななければ多くの実を結ぶことはできない



2004年 05月 15日 (土)

ヨハネノ福音書12:27-36
このためにこそ、

Ⅰ.父よ。御名の栄光を現わしてください。(27-33)
イエス様は、十字架で死なれる時が来たことを知り、心が悲しくなりました。「この時からわたしをお救いください。」と祈られました。イエス様は神様の御子でした。しかし死を目の前にして私達と同じように、悩み、悲しみに陥られました。 
しかし、イエス様は根本的に神様に従おうと闘争し、神様の御名の栄光を現わして下さいと祈られました(28)。神様はこの祈りに答えられました。イエス様が死なれることで世の王が追い出され、多くの人々の命を救うようになるという確信をくださいました(32)。
Ⅱ.光の子どもになりなさい(34-36)
イエス様が十字架で死なれることで、全ての人々が救いを得ることができる道が開かれるようになりました。誰でも、信じさえすれば、救いを受けることができます。しかしユダヤ人達はイエス様の言葉じりを掴んで判断し、信じませんでした。彼らはまだ光であるイエス様を信じることができず、やみに捕まってさまよっていました。
イエス様は彼らに日かある間に歩み、光がある間に光を信じるように言われました。誰でも光を信じれば、光の子どもになります(36)。イエス様は彼らから離れて身を隠されました。

祈り:主よ!私が主を見習って、自分を否定し、神様の御旨に従って、麦の真理に従うように助けて下さい。

一言:わたしはこのために来たのです。



2004年 05月 16日 (日)

ヨハネノ福音書12:37-50
光として来られたイエス様

Ⅰ.人の栄誉をもっと愛するユダヤ人達(37-43)
ヨハネはユダヤ人達の不信仰を理解することができませんでした。しかしこの全てのことは、預言者イザヤがキリストの栄光とユダヤ人達の不信仰を預言した通りに成就したことを明らかにしました。
しかし指導者達の中にはイエス様を信じる人がたくさんいました。しかしパリサイ人人達のために、公にすることができませんでした。現実的な被害を受けることを恐れたからです。彼らの根本問題は神様の栄光より人の栄誉をもっと愛することです。
Ⅱ.光として来られたイエス様(44-50)
イエス様は、霊的な目が遠くなり、心がかたくななユダヤ人達に信仰を求められました。イエス様を信じる者は神様を信じる者であり、イエス様を見る者は神様を見るものです。
イエス様は光として世に来られました。それで誰でもイエス様の御言葉を聞いて従う者は闇にとどまらずに、光りの中に歩む者です。イエス様は世をさばくために来られたのではなく、救うために来られた救いの光です。イエス様の御言葉は、すなわち神様の御言葉であり、さばきの基準になります。それで私達は単純にイエス様を信じて、その御言葉に従わなければなりません。

祈り:主よ!私が人の栄誉を愛さずに、神様の栄光を求めることができるように助けて下さい。私の霊的な目を開けて下さい。

一言:神様の栄光を求めなさい。


<<(1)    前のページ(11)    12    次のページ(13)    (21)>>

聖書別日ごとの糧