聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2004]

2004年 06月 02日 (水)

ヨハネノ福音書20:1-9
からの墓

Ⅰ.からの墓(1-7)
 安息日の後の最初の日、マグダラのマリヤはイエス様の墓がからであるのを見ました(1)。ペテロとヨハネも、からの墓と死体を巻いていた布切れが別の所にたたんであるのを発見しました(7)。
これは、イエス様がご自分のよみがえりを知らせようとするために残しておいた、唯一の証人達です。イエス様の死体を誰かが盗んだとしたら、なぜわざわざ亜麻布を取って布切れをたたんだのでしょうか。からの墓はイエス様のよみがえりを証しする重要なものです。
Ⅱ.よみがえりを信じる二人の弟子(8,9)
 ペテロとヨハネは、からの墓、亜麻布、そして布切れを見て、イエス様のよみがえりを信じました(8)。誰かが死体を盗んだのではなく、主が再びよみがえられたという歴史的な事実を信じるようになったのです。彼らの信仰は聖書の御言葉に基づいたものではありませんでした(9)。また、イエス様がどんなからだでよみがえられるのかも知りませんでした。しかし、歴史的な事件としてイエス様のよみがえりを信じました。
 この信仰は非常に重要な信仰です。なぜなら「よみがえり」が私達クリスチャンのよみがえりの基礎であり、神様の御国の礎となるからです。イエス様のよみがえりは作り出された話しではなく、歴史的な事実です。

祈り:主よ!主がよみがえられたことを信じます。主が初穂としてよみがえられたので、私もよみがえり、永遠の神様の御国に導かれることを確信します。

一言:よみがえりは歴史的な事実



2004年 06月 03日 (木)

ヨハネノ福音書20:10-18
マリヤに現われたイエス様

Ⅰ.なぜ泣いているのですか(10-15)
 マリヤが墓の外で泣いていた理由は何ですか。イエス様の死体がなくなってしまったからです(10)。マリヤはよみがえられたイエス様を見ても、園の管理人だと思いました。それは、悲しみの涙が彼女の目をさえぎってしまったからです。
 マリヤの悲しみは、イエス様のよみがえりを信じることができないことから出たものです。イエス様のよみがえりがなければ、人類の歴史上、イエス様の生涯ほど最も大きな悲劇はありません。主を信じて従う者も、最も悲しい者になります。主を愛し忠実であるのに悲しいのは、復活信仰がないからです。
Ⅱ.「マリヤ」と言われたイエス様(16-18)
 よみがえられたイエス様はマリヤの名前を呼ばれました(16a)。この御声は牧者の声であり、変わらない愛の声でした。この声を聞いて初めてマリヤは、イエス様がよみがえられたことを信じるようになりました。イエス様のよみがえりを信じるようになったマリヤは、喜びのあまり「ラボニ」と言ってすがりつこうとしました(16b)。
 しかしイエス様は「すがりついてはいけない。」と言われました。これはマリヤがよみがられたイエス様と霊的な交わりをするためであり、復活の証人として生きるように助けるためでした(17)。

祈り:主よ!主に従いながらも、復活信仰がないため心の中に悲しみがあったことを悟り、悔い改めます。積極的な復活の証人として生きるように助けてください。

一言:なぜ泣いているのですか



2004年 06月 04日 (金)

ヨハネノ福音書20:19-23
弟子達に訪ねて来られたイエス様

Ⅰ.平安の王イエス様(19-20)
 イエス様は、閉め切った戸から入って来られました(19)。イエス様は、霊的な体でよみがえられたので、時間と空間の制約を受けられませんでした。また、よみがえられたイエス様は、十字架の痕跡を残しておられました。イエス様は永遠に生きておられ、私達の和解の供え物になられました(Ⅰヨハ2:2)。
 またイエス様は恐れにおののいている弟子達に、「平安」を与えてくださいました。イエス様が与えられる平安は、永遠の平安です。神様との和解から生じる霊的な平安であり、たましいのまことの平安です。イエス様は平安の王です。
Ⅱ.弟子達を遣わされたイエス様(21-23)
 イエス様は、復活を信じて喜んでいる弟子達に使命をお与えになりました。神様がイエス様を世に遣わされたように、イエス様も弟子達を世に遣わされました(21)。
 イエス様は弟子達に聖霊の力を与え、罪の赦しの福音を証しする者として派遣されました(22,23)。この御業は五旬節の時、聖霊が臨まれることで成し遂げられます。五旬節の時、弟子達は初めてイエス様の十字架の死と復活の意味を悟り、大胆に十字架と復活の福音を証しするようになりました。

祈り:主よ!主がよみがえられたことでこの罪人の心に平安を与えてくださり感謝します。世界に出て行き、大胆に主の福音を証しします。

一言:平安の王・イエス様



2004年 06月 05日 (土)

ヨハネノ福音書20:24―31
トマスに訪ねて来られたイエス様

Ⅰ.復活信仰を与えられたイエス様(24-28)
 イエス様は、トマスがサタンがうえつけた恐れに捕らわれ、多くの苦しみを受けていることを知り、彼に訪ねて来てくださいました。そして、トマスに指を出してよみがえられたイエス様の手とわきに差し入れ、信じる者になるように言われました(27)。
 その時、トマスは自分の不信仰を悔い改め、信仰告白をしました(28)。イエス様は疑ってばかりいたトマスのことをあきらめず、最後まで愛によって仕え、復活信仰を与えてくださいました。イエス様は、私達が合理的・論理的な考えの奴隷になる時、最も悲しまれ、信仰ある者となることを望まれます。
Ⅱ.見ずに信じる者は幸いです(29-31)
 イエス様は、見て信じるトマスに、「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。私達が正しい信仰生活をするためには、見ずに信じるものにならなければなりません。罪の赦し、イエス様の再臨、神様の御国、私達の体のよみがえりなど、直接見ることができないものが非常にたくさんあります。ですから、見れば信じると言う人は、見えない神様と神様の御国があることを悟ることができません。たとえ見なくても、御言葉だけを聞いて信じる信仰が最も幸いな信仰です。見ずに信じる信仰は、イエス様自体を信じる成熟した信仰です。ヨハネの福音書を記録した目的は、イエス様が神様の御子キリストであることを信じることでいのちを得させるためです。

祈り:主よ!トマスのように疑い深い私を最後まで愛で抱き、復活信仰を与えてくださり感謝します。合理的な考えを捨て、御言葉を単純に受け入れます。

一言:信仰は、見えないものの証し


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