聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2024]

2024年 03月 09日 (土)

ヨハネの福音書7:1-13(6)
わたしの時、あなたがたの時

ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたので、イエス様は仮庵の祭りのためにエルサレムに上ろうとしませんでした。仮庵の祭りはイスラエルの民が荒野で生活をしていたことを記念する日です。その日には、12歳以上の男子はみなエルサレムに集まって来ました。そこで、イエス様の兄弟たちは「ここを去ってユダヤに行きなさい」と言い、イエス様が自分を世に現すように促しました。彼らは、イエス様がご自分を世に現すことを望んでいると思っていました。イエス様がこれまでに多くの病人を癒し、群衆に御言葉を教えてきたからです。弟たちは、イエス様が自分の能力を世にさらに現し、人気と栄光を得ることを望みました。こう考えたのは、兄弟たちがイエス様をキリストとして信じていなかったからです。彼らは、世の人々の人気と栄光を得ることを願いました。しかし、イエス様は、キリストとして神様の栄光を現すことを願われました。それで、イエス様は神様の栄光を現す時を待っておられました。それは、十字架につけられ、死ぬことでした。一方、自分の栄光を求める人たちの時は常に準備されています。なぜなら、いつでも自分を現せばいいからです。イエス様は、自分はエルサレムに行かないと弟たちに言いましたが、内密に上って行かれました。これは、祭りに来る人々に神様の御言葉を教えようとしたからです。

自分の栄光を求める人は、人々の要求に従います。しかし、神様の栄光を求める人は、神様の時を待ちます。そして、黙々と自分に与えられた仕事をします。神様は、このような人を通して栄光を受けます。



祈り:主よ、世の栄光を求めて世の流れに敏感になり、人の視線を気にしながら生きていた自分がいます。憐れんで下さい、神様の時に敏感な者になるように私を変えてください。

一言:神の時に従って



2024年 03月 10日 (日)

ヨハネの福音書7:14-36(24)
正しいさばきをしなさい

ユダヤ人の間で、イエス様がキリストであるかどうか議論になりました。イエス様はキリストであるはずがないと思った人は、イエス様のうわべだけを見て判断していました。イエス様がダビデの故郷ベツレヘムで誕生された方であるという事実を知ろうとせず、ガリラヤから来たというだけで、ガリラヤ出身だと決めつけました。そして、ガリラヤ出身の人がキリストであるはずがないと思いました。それに対し、イエス様は、彼らが神様のみこころを行うことを願っていたなら、イエス様の教えが神様から出たものであることがわかるはずだと言われました。ユダヤ人たちは、イエス様が安息日の律法を破ったとも考え、ますますキリストとして受け入れることが出来ませんでした。そして、イエス様を殺そうとしました。ユダヤ人たちは、割礼を施すのが神様のみこころだと考えていたので、安息日であっても割礼を施しました。安息日に割礼を施すことは、安息日の律法を破ることではないと考えました。そうであるなら、イエス様が安息日に人の全身をすこやかにしたことも、安息日の律法を破ったことにはならないはずです。なぜなら、人を生かし、救うことが神様のみこころだからです。イエス様は、神様から来られ、神様のみこころを行われました。そして多くのしるしを行われました。したがって、イエス様をうわべによってさばかないで、正しいさばきをするなら、イエス様がキリストであることが分かるようになります。

うわべによって判断する時、イエス様が誰であるのかを知ることはできません。人をうわべだけで判断するなら、誤解しやすいものです。イエス様の教えと行われたことをよく見て正しく判断するなら、イエス様がどんな方であるかを知るようになります。 その人の言葉と行動を見て、正しいさばきをする時、その人を正しく知ることができるようになるのです。



祈り:主よ、私が正しいさばきができるように、霊的な目を開いて下さい。

一言:正しいさばきをしなさい



2024年 03月 11日 (月)

ヨハネの福音書7:37-52(37)
生ける水の川が流れ出る

イスラエル人は仮庵の祭りのとき、シロアムの池から水を汲み、それを神殿に注ぐ儀式を行いました。この祭りの時、イエス様は神殿で、渇いている人々をご自分のもとに招かれました。生ける水を与えるためでした。神様は荒野で岩から水を出させました。イエス様は、荒野のようなこの世で渇いている人々に生ける水を与えることのできる方です。イエス様を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。これは、イエス様を信じる者が受ける聖霊のことを言われたのです。イエス様を信じるなら、聖霊が臨まれ、生ける水の川が流れ出るようになります。

人々は、さまざまな理由で渇きます。サマリアの女のように愛に渇いている人、熱心党員のように民族の独立に渇いている人もいます。経済的な安定に渇いている人、人々に認められることに渇いている人もいます。渇くと、みな、外部条件を通して渇きを解決しようとします。しかし、外部条件によってどんなに満たされたとしても、渇きは無くなりません。生ける水の川がその人の中から流れ出るとき、初めて渇きは解消されるのです。イエス様をキリストとして信じる人は、聖霊がその人の内におられるので、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。その人は自分の渇きを解決するだけでなく、渇きに苦しんでいる他の人達にも生ける水を与えることができます。



祈り:イエス様、生ける水の川から飲むように私を招いてくださり、心から感謝します。渇いた魂を持って私もあなたのもとに参ります。心の奥底まで満たして下さり、私の渇きを潤してください!

一言:わたしのもとに来て飲みなさい



2024年 03月 12日 (火)

ヨハネの福音書7:53-8:11(11)
わたしもあなたを罪に定めない

イエス様が朝早く、宮に入られた時、民衆はみな、イエス様の御言葉を聞こうと集まってきました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来ました。彼らは女を真ん中に置き、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」と質問しました。彼らがイエス様にこのように聞いたのは、イエス様を告発する理由を得るためでした。この時、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。そして、問い続ける彼らに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。これは、誰も女を罪に定めることは出来ないということです。なぜなら、すべての人が罪を犯した罪人であるからです。最初に石を投げるとは、その判決について責任を負うという意味です。誰も最初に彼女に石を投げることができませんでした。イエス様の御言葉を聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様と女だけが残されました。

イエス様は、女性を告発した人たちがいないことと、彼女を罪に定める人もいないことを確認しました。ただ神様とその御子であるイエス様だけが彼女を罪に定めることができるのです。イエス様は、女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。」イエス様は、彼女を罪に定めないで赦してくださいました。イエス様は、罪人を罪に定めずに、赦してくださるキリストです。罪に定めないイエス様に頼るとき、私たちは罪と戦うことができます。これ以上、罪の奴隷として生きなくても良いのです。



祈り:主よ、人を裁くことを好む罪を深く悔い改めます。私が絶えずイエス様の赦しの愛を受け入れ、兄弟を赦す生活をするように助けてください。

一言:イエス様のように、罪に定めない


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