聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2024]

2024年 05月 03日 (金)

ヨハネの福音書10:1-10(10)
豊かに得るためです

 盲目の物乞いが癒されたことに激しく怒ったパリサイ人たちに対し、イエス様は、ご自分とご自分を信じる者たちの関係について話されます。牧者と羊の親密な関係に例えて説明されました。

本物の牧者は門を通って囲いの中に入ります。門番は牧者のことを知っていて、牧者を中に入れます。牧者は羊たちのことを知っていて、それぞれ名を呼んで連れ出します。パリサイ人たちは、羊の牧者のふりをしているだけでした。彼らは民を教え導く立場でありながらも、実は、盗人で強盗でした。民に近づく目的は、殺したり滅ぼしたりするためでした。彼らは自分の有益のために羊に近づきました。彼らは生まれつきの盲人の命には関心がありませんでした。イエス様を信じるという理由だけで彼を追放しました。しかし、羊はそういった盗人と強盗の言うことは聞かないで逃げ出します。なぜなら羊は、視力は弱くても、本能的に牧者と強盗を聞き分ける力を持っているからです。一方で、本物の牧者は羊たちの世話をするために近づくので、堂々と門から入ります。そして、自分の羊の名前を呼んで導きます。羊は牧者の声を知っているのでついて行きます。イエス様は私たちの牧者で、私たちはその羊です。イエス様は私たちのことをよく知っています。私たちはイエス様の声を聞いて、ついて行く者です。

 イエス様は羊たちの門でもあられます。誰でもイエス様に入るなら救いを得、出入りしながら牧草を見つけます。イエス様が来られた目的は、羊がいのちを得、豊かに得るためです。イエス様は、盲人の目を開き、救いを得させました。誰よりも彼のことをよく知っており、繊細にケアしながら導いて下さいました。イエス様の御声を聞いて、羊の門であられるイエス様に出入りする人は、救いと豊かないのちを得るのです。



祈り:主よ、あなたを通って入るとき、救いを得られることに感謝します。私が毎日あなたの門を出入りし、牧草を見つけて、豊かないのちをもつ者として生きるようにお祈りします。

一言:救われ、牧草を見つけます



2024年 05月 04日 (土)

ヨハネの福音書10:11-21(11)
わたしは良い牧者です

 雇い人も牧者も、羊を飼う人です。イエス様はご自分を良い牧者だと言われました。雇い人か良い牧者かを判別することは、そんなに難しくありません。危機の時にどういう行動をとるかでわかります。雇い人はお金のために働いていて、自分のことを一番心にかけているので、狼が来ると羊を置き去りにして逃げます。しかし、良い牧者であられるイエス様は、羊のために命を捨てます。また、父なる神様とイエス様が互いをよく知っているように、イエス様は羊のこともよく知っておられます。これは、人格的な関係性の中で深く知ってくださるという意味です。イエス様は羊の長所も短所も能力も性格もご存じです。羊の痛みも苦しみもご存じです。

 羊をよく知っておられるイエス様が、羊のために命を捨てる理由は、罪と死の勢力の中で苦しむ羊たちを助けるためです。イエス様は生まれつきの盲人の痛みを知っておられました。彼に救いと永遠のいのちが必要であることも知っておられました。彼が罪によって苦しんでいるのも知っておられました。雇い人であるパリサイ人たちがイエス様を殺そうと血眼になっている中でも、イエス様は少しもひるまずに盲目の人を助けました。イエス様が羊のために命を捨てるのは、力がないからではありません。神様の御心に従順になってイエス様ご自身で捨てられたのです。イエス様は、囲いに属さないほかの羊をも導くために、ご自分の命を自ら捨てようとされました。私たちを愛して命を与えてくださったイエス様、誰よりも私たちをよく知っておられるイエス様を牧者として受け入れるなら、良き牧者イエス様に守られ、導かれる人生を生きるようになります。



祈り:主よ、弱い私は雇い人に惑わされることがあります。ご自分の命を捨てるほどに私を守ってくださるあなたに、よくついていけるよう、お助けください。

一言:良い牧者イエス様について行きましょう



2024年 05月 05日 (日)

ヨハネの福音書10:22-42(36)
わたしは神の子である

 宮きよめの祭りの時、イエス様は宮の中でソロモンの回廊を歩いておられました。ユダヤ人たちはイエス様を取り囲んで、キリストかどうかはっきりするように言いました。彼らは、イエス様のこれまでの話やわざを見ても、まだイエス様を受け入れず、もっと証明してほしいと考えました。イエス様は、ご自分がキリストであることをどんなに話しても、彼らが信じないのだとはっきりと答えられました。そして、再び羊と牧者の話をされました。信じるというのは、羊が牧者の声を聞き分け、牧者のことを知り、ついて行くのと同じです。

牧者のことを良く知っているので、羊は牧者について行きます。そして、羊の健康、成長、毎日の生活に対して、牧者が責任を持ってくれます。羊は、自分がどうやって生きてゆくべきかを心配する必要はありません。同じように、私たちもイエス様について行くなら、イエス様が責任もって私たちを導いてくださいます。そして、絶対に誰にも奪われることのない神様の中での永遠のいのちを与えてくださいます。それは、私たちが何か認められるような事をしたからではなく、ただイエス様の羊であるからだけです。そして、狼がイエス様の羊の命を奪い去ろうとしても、すべてにまさって偉大な神様の御手によって羊たちは守られます。父なる神様とイエス様は一つなので、神様がイエス様にお与えになった羊を必ず守ってくださいます。

ユダヤ人たちは、イエス様が自分を神にしようとしていると責め、石打ちにしようとしました。結局、イエス様がキリストかどうかを本当に知りたくて質問をしたのではなかったのです。ただ、目障りだと思ってやっつけるための口実を見つけようとしていただけでした。イエス様が行ったわざを見て信じさえすれば、イエス様が神の御子キリストであることを信じることができます。そして、イエス様の羊となれます。



祈り:主よ、あなたが私を守り、導いて下さることを感謝します。私があなたを日々覚え、あなたの声を聞いて信仰生活を送ることができるように祈ります。

一言:イエス様を神の子だと信じます


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