聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2024]

2024年 05月 06日 (月)

ヨハネの福音書11:1-16(9)
この世の光

マリアは献身的にイエス様に仕えた人でした。イエス様もマリアとその家族を愛していました。しかし、マリアの兄ラザロが病気になったという知らせを聞いても、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われ、なお二日その時いた場所にとどまられました。イエス様が到着される前にラザロは死にました(14)。しかしイエス様はこの出来事を通して、神様の栄光を現わし、人々の信仰を育もうとされました。クリスチャンはどんな場合にもイエス様の愛を疑ったり、絶望したりしてはいけません。

三日目にイエス様は弟子達に、もう一度ユダヤに行こう、と言われました。しかし弟子達はユダヤ人達を恐れて、できることなら行きたくないと思いました。その時、イエス様は彼らに対して、「昼間は十二時間あるではありませんか。誰でも昼間歩けば、つまずくことはありません。」と言われました。イエス様はこの世の光です(9)。誰でもイエス様を信じる者にはいのちの光が照らされます(8:12)。この光の中に歩む者は決してつまずきません。信仰によって生きる者は人生がいつも明るく希望で満ちています。また、いのちの光であられるイエス様にとって、死はしばしの眠りであり、長い休息に過ぎません。イエス様は、ラザロの出来事を通して、弟子達に復活の御業を証しすることを大きく喜ばれました(15)。



祈り:主の働きは時にかなって美しく、どのような時にも私たちをいのちの光で照らしてくださっていることを信じます。時に理解できないことが起こりますが、主の光の中にとどまり、主の救いを待ち望むように助けてください。

一言:世の光、イエス様



2024年 05月 07日 (火)

ヨハネの福音書11:17-27(25)
よみがえりであり、いのちであるイエス様

 イエス様がおいでになると、ラザロが墓に収められてすでに四日たっていました。マルタは、イエス様が来られたことを聞いて、出迎えに行きました。そして、もし主がここにいて下さったなら、ラザロは死ななかったと言いました。兄の死の悲しみに押しつぶされそうになりながら、気丈にイエス様にふるまいました。そのようなマルタにイエス様は兄がよみがえる希望を与えられました(23)。その時、マルタは、終わりの日のよみがえりの時に、ラザロがよみがえることは知っていると言いました。イエス様が罪を赦す力だけでなく、いのちと死を支配する力を持つことを信じることができませんでした。

 イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者みな、永遠に決して死ぬことがありません。」(25,26)と証しし、このことを信じますか、とマルタに尋ねられました。イエス様は死のうとしているマルタの希望をよみがえらせ、揺らがない信仰の確信を与えられました。マルタは告白しました。「私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると、信じております。」



祈り:よみがえりであり、いのちである主に不可能なことは何もないことを信じます。私が主を信じるので、死んでも生き、永遠に死なないことを確信します。

一言:わたしはよみがえりです、いのちです



2024年 05月 08日 (水)

ヨハネの福音書11:28-44(39)
石をとりのけなさい

イエス様は、マリアが悲しむ姿と村の人々が声を上げて泣く姿を見て、彼らの悲しみと苦しみに共感し、憐れまれ、涙を流されました。イエス様は愛する子ども達を苦しめる死の勢力をご覧になって、心に憤りを覚えました。また、よみがえりであり、いのちであるイエス様を目の前にしながらも、それが分からず、ただ泣くしかできない彼らをご覧になって悲しまれたのです。

イエス様は、墓の石を取りのぞきなさい、と悲しむ人々に言われました。不信の石、悲しみの石、失望の石を取りのぞきなさいと言われました。ためらうマルタに再び言われました。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40)イエス様は、兄の死に絶望するマルタが最後まで御言葉を堅く掴み、最後まで信じる信仰で、神様の栄光を見るように助けてくださいました。どんな絶望的な状況でも信仰を失わなければ、神様の栄光を見ることができます。ラザロのよみがえりは、ただの奇跡ではなく、イエス様が神様の絶対的な栄光と力を示すために来られたことを明確に象徴するものとなりました。



祈り:主よ、世の救い主としてイエス様を遣わしてくださり、私たちがイエス様を深く知るように召してくださったことを感謝します。希望をもって日々を主と共に歩むことができるように助けてください。

一言:信じるなら神の栄光を見る



2024年 05月 09日 (木)

ヨハネの福音書11:45-57(45)
見て、信じた人たち

マリアのところに来ていた多くのユダヤ人たちは、ラザロの蘇りを見て、イエス様を信じました。しかし祭司長たちとパリサイ人たちは、その出来事の報告を受け、このうわさが広がって、全ての人がイエス様を信じるようになり、自分たちの権威が脅かされることをひどく恐れました。

彼らは、イエス様のしるしを目の当たりにしていながら、自分たちが間違っていることを認められずに拒絶しました。その時、大祭司カヤパは、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」とそれらしい論理を出して、イエス様を殺さなければならないと主張しました。

イエス様は死んだ者をよみがえらせるいのちの御業を行なわれましたが、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうと血眼になりました。彼らは自分が何をしているのか理解できませんでしたが、神様によってイエス様の死を説明するために用いられました。



祈り:主よ、全てのことが主の御手の上にあることを悟ります。躓くことなくイエス様の愛と恵みを受け入れ、主の祝福の道を歩むようにどうか助けてください。

一言:イエス様を信じましょう


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