聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2015]

2015年 02月 24日 (火)

ローマ2:1-5
他人をさばく罪

 人々は、他人を判断して、さばくことを好みます。これを通して、自分の正しさと、優越感を現わそうとします。しかし、自分が他人を罪に定めるなら、それは、すなわち自分自身を罪に定める口実になります。なぜなら、自分も、同じように罪を犯しているからです。更に恐ろしいのは、私が他人をさばく時、神様が直接、私を罪に定め、さばかれるということです。神様が、真理に従ってさばかれる時、誰が、神様の恐ろしいさばきから逃れることができるでしょうか。私たちが、よく他人をさばくなら、それは、神様の恐ろしいさばきが、自分にもたらす結果を招いてしまいます。私が他人をさばいている以上に、私たちは神様から恐ろしいさばきを受けるようになる、ということを、知らなければなりません。
 神様が、私たちをさばかないでおられるのは、私たちが正しいからではありません。神様が憐れみ深い方であり、私たちに耐え忍んでおられるからです。それでも、私たちが悔い改めず、かたくなであるなら、いつか、必ず神様の御怒りが臨むようになります。しかし、ユダヤ人たちは、この神様の愛を悟ることができませんでした。むしろ、傲慢と自分の義によって、神様の愛を蔑みました。しかし、神様の正しいさばきが臨まれるので、恐ろしい御怒りが彼らに降り注がれるようになります。人が霊的に成長することは、自分が罪人であることを深く知り、更に謙遜になることを意味します。自分は節制して、他人には寛大な人が、成熟したクリスチャンです。

祈り:主よ!私が他人をさばかずに、神様の憐れみと寛容を学ぶように、助けてください。

一言:まず、私自身を顧みよう



2015年 02月 25日 (水)

ローマ2:6-16
神様の正しいさばき

 神様のさばきには、偏見が起こり得ません。なぜなら、神様は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになるからです。苦難があっても、耐え忍んで善を行ない、栄光と誉れと不滅のものを求める人には、永遠のいのちの祝福が与えられます。反面、党派心を持ち、真理の代わりに、不義に従う者には、神様は必ずお怒りになります。悪を行なうようになれば、たましいに安らぎがありません。患難と苦労で苦しめられます。誰が見ていても、見ていなくても、善を行なう人は、その内面に栄光と誉れと平和が臨むようになります。これは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、差別はありません。神様は、条件に関係なく、その人の行ないに従って、公平にさばかれます(Ⅱコリ5:10)。
 神様のさばきは正しいです。律法なしに、罪を犯した者は、律法に関係なく滅び、律法がありながら、罪を犯した人は、律法に従って、さばきを受けます。律法がない異邦人には、彼らの良心と理性が律法の役割をします。良心が証言し、彼らの考えが、互いに、告発し、弁明するからです。最後には、イエス様がさばき主となり、見えない所で行なった全ての行ないまで、さばかれます。人々は、密かに罪を犯しますが、主がさばかれる日には、その罪が明らかにされ、みな現れるようになります。それで、私たちは、炎のような目で、私たちをご覧になる神様の御前で、恐れおののきながら生きなければなりません。最後の瞬間に、主の御前に立った時を考え、一日一日を過ごさなければなりません。

祈り:主よ!私が人生を無駄にせずに、正しくさばかれる神様の御前で、日々、真実に生きるように助けてください。

一言:行ないに従ってさばかれる神様



2015年 02月 26日 (木)

ローマ2:17-29
神様から称賛される人

 ユダヤ人たちは律法に頼り、神様を誇りました。律法の教えを受け、神様の御旨を知り、最も良いことを、好みました。自分に対しても、神様の御言葉を教える者と言う自負心が強くありました。しかし、実際の彼らは、自分たちを教えませんでした。「盗むな」と教えながら、自分たちは、神様の供え物と他人の物を、かすめ取りました。「姦淫してはならない」と教えながら、姦淫の罪を犯しました。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取りました。律法を誇りながら、自分たちは律法に違反しました。彼らは神様の前に、生きませんでした。彼らの、このような偽善のために、神様の御名が異邦人たちの中で、汚されるようになりました。
 ユダヤ人たちは、割礼を誇っていました。しかし、割礼のしるしが大切なのではありません。律法を守ることが大切であって、外的な割礼のしるしが救いを保障してくれるのではありません。神様は、体に刻まれている割礼のしるしをご覧にならず、生活の中に刻まれている悔い改めと従順のしるしをご覧になります。私たちが神様の子どもになった、という証しは、私が心から神様を信じ、御言葉を守って行なおうとするところにあります。人が見る目や、世の賞賛や認められることは、無意味なものです。神様が、私をどのようにご覧になり、私をどのように評価されるのか、が本当に大切なことです。それで、私たちは、うわべの形式や人々の称賛に縛られるのではなく、神様に認められ、称賛されることに、力を入れなければなりません。

祈り:主よ!私が、人々に見せるための、うわべの闘争をせずに、内面の闘争ができるように、助けてください。

一言:私自身をまず教えよう


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