聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2015]

2015年 02月 27日 (金)

ローマ3:1-20
義人はいない

 自分たちの罪を指摘されたユダヤ人たちは反発しました。ユダヤ人のすぐれたところは何であり、割礼にはどんな益があるのか、と聞きました。しかし、彼らは神様の御言葉を知り、任された者の特権が大きかったのです。それでも、彼らは神様の祝福を、よく担うことができませんでした。彼らは傲慢になり、神様の御子イエス様を信じずに、十字架につけました。そうだからといって、神様の救いの契約は失敗した、とは考えられません。人は不真実であり、神様の御旨を成し遂げることができませんが、神様は真実に、人類の救いの御業を成しておられます。その時、ユダヤ人たちは、このように言います。「私たちが不義を行なっても、神様が義を行なわれるので、私たちには罪がない。」(5)。「神様の善を現わすために、悪を行なったので、私たちは大丈夫だ。」(8)。しかし、このように神様の真実を悪用する者たちは、罪に定められるようになります。
 結局、ユダヤ人や異邦人もみな、罪の勢力の下にいるために、罪から逃れることはできません。自分で、正しいと言える人は、この世には、誰もいません。罪によって、目が閉ざされている人は、神様を捜しません。無益な物を求め、善を行ないません。その体の至る所が、悪で満ちています。このように、罪で満ちた世の中は、神様のさばきを受けるしかありません。律法のものさしで測る時、私たちはみな、さばきを受けて当然の罪人です。それで、私たち、罪人には、救う者が切実に必要です。

祈り:主よ!私が罪人であることを謙遜に認め、主に進み出て、憐れみを求めるように助けてください。

一言:義人は、一人もいない



2015年 02月 28日 (土)

ローマ3:21-31
その血を信じることで

 律法の基準から判断すると、正しいと言える人は、一人もいません。全ての人が罪を犯したので、皆が基準を満たしていませんでした。しかし、神様は、律法とは別に、一つの義を現れました。それは、神様の御子イエス様が、私たちの代わりに十字架につけられて死なれましたが、その十字架の血を信じる者が、義と認められることです。神様が、私たちの行ないから、私たちを義とされたのではなく、イエス様の贖いの血を信じる信仰をご覧になり、私たちの罪を見逃してくださいました。神様は、イエス様を、なだめの供え物として示されることで、罪をさばかれる公義も満たされました。また、私たち、罪人も、義とされました。それで、自分が救われたから、といって、誰も誇れる人はいません。私の行ないによるのではなく、イエス様の贖いを信じる信仰によってのみ、救いを受けたからです。それで、私たちはイエス様を誇り、イエス様の十字架の血を誇らなければなりません。
 今、ユダヤ人か、異邦人かと問うのは無意味なことです。イエス様が、ユダヤ人の罪だけではなく、全ての世の人々の罪のために、死なれたからです。神様は血筋をご覧にならず、信仰だけをご覧になるからです。主は、私たちの全ての血の代価を、十字架で代わりに支払われました。主は、私たちに、ただ信仰だけを要求されます。この主の愛を表現する方法がありません。今、私たち自身に対する誇りも、自虐も、無意味なものです。私たちは、ただ、イエス様の十字架の血だけを誇らなければなりません。

祈り:主よ!私が生涯、イエス様の血だけに頼り、誇る者となるようにしてください。

一言:血の力


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