聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2015]

2015年 04月 19日 (日)

ローマ4:1-8
アブラハムとダビデの信仰

 ユダヤ人たちは、彼らの先祖アブラハムを誇らしく思っていました。しかし、アブラハムも、行ないによって義と認められたのではありません。子どもの問題で不信仰に陥っていましたが、神様の御言葉を聞いて、神様を信じました。神様は彼に夜空の星を見せて、多くの子孫を与えるという、望みを見せてくださいました。すると、アブラハムは神様に対する不平不満を捨て、神様を信じました。彼は特別なことをしたのではありません。特に敬虔だったわけでもありません。しかし、神様はアブラハムのその信仰をご覧になり、これをアブラハムの義と見なされました(創15:6)。ユダヤ人たちの先祖アブラハムも、ただ信仰によって認めらましたが、まして私たちが、何によって、神様から認められるのでしょうか。ただ、神様は私たちに信仰だけを求めておられます。それで、信仰の人になるべきです。
 ユダヤ人たちがそれほどまでに尊敬しているダビデも、行ないによって、神様に認められたのではありません。彼は情欲の罪に倒れ、骨が朽ちる苦痛を味わいました。彼が、いくらすばらしい業績を多く積んだとしても、彼の義は一瞬のうちに、崩れしまいました。しかし、彼は切に悔い改めた時、神様は彼に罪の赦しの恵みを施してくださいました(Ⅱサム12章)。ダビデは、罪を赦された恵みが最も幸いである、と告白しました。罪によって、さばかれ、死ななければならない私たちにとって、神様の御前に何も出すことはできません。ただ、私たちの罪のために、代わりに死なれたイエス様を信じることによってのみ、神様の御前に大胆に出て行くことができます。

祈り:主よ!私がただ、信仰一つを持って、主の御前に出て行く、謙遜な者になるように、助けてください。

一言:信仰だけを堅くつかもう



2015年 04月 20日 (月)

ローマ4:9-25
望みえない時に

 神様から義と認められるのは、割礼のある者にだけ、限定されるのではありません。アブラハムは、割礼を受けていない時に、その信仰によって義と見なされました。割礼は、信仰によって義と認められたことの証印です。アブラハムは、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての父となりました(11)。また、割礼のある者の父にもなりました。私たちクリスチャンは、アブラハムが無割礼の時に持った信仰の足跡に従って歩んでいます。また、アブラハムや、その子孫に与えられた世界の相続人となるという約束を、今受けているのです。それは信仰の義によったものです。(13)。
 アブラハムが信じた神様は、死者を生かし、無いものを有るもののように及びになる方です。彼には子どもがいませんでしたが、彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。「あなたの子孫はこのようになる。」と言われた通りに、彼はあらゆる国の人々の父となりました。アブラハムは百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰によって神様の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神様に栄光を帰し、神様には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。それが、彼の義とみなされました(22)。この「義」は、ただ彼のためではなく、また、私たちのためでもあります。私たちの主イエス様を死者の中からよみがえられた方を信じる私たちも、その信仰を義と見なされます。私たちが義と認められるために、イエス様は死者の中からよみがえられました。

祈り:主よ!望みえない時に望みを抱いた信仰の先祖アブラハムの足跡をたどっていきます。イエス様は、私たちの罪のために、十字架につけられて死なれましたが、全能なる神様によって、イエス様がよみがえらされたことを信じます。

一言:信仰による義


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