聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2015]

2015年 04月 23日 (木)

ローマ6:1-14
私自身は義の器

 5:20節で、「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と記されています。だからと言って、恵みを満ちあふれさせるために、罪を増し加えることはできません。私たちは、すでに罪から離れています。私たちの昔の自分は、キリストと共に死にました(ガラ2:20)。そして今、私たちは、よみがえられたイエス様と共に、新しいいのちを受けるようになりました。私たちは今、これ以上、罪に支配されることはできません。死が私たちを、主張どおりに、私たちを振り回すことはできません。私たちは、罪に対しては死んだ者であり、キリスト・イエスの中で、神様に対しては生きた者だと思わなければなりません。自分が、まだ罪と関係していると思うなら、これ以上、罪に対して、ずるずると引きずってはいけません。ただ、自分は今、神様に対して、生きた者だと思い、神様を愛して生きるだけです。イエス様と共に生き、イエス様がくださる新しいいのちの中で、生きるだけです。
 以前に、私たちは不義の器として、罪にささげていました。サタンがなすままに、罪の欲のままに、自分の考えと行ないのままにゆだねました。しかし今、私たちは、イエス・キリストの中で、再び生かされ、義の器になりました。義を行なう道具になりました。それで、私たちは今、積極的に自分の人生を主にささげ、義を行なうことに、力を入れなければなりません。自分自身が、束の間の快楽のための、遊び場になってはいけません。神様の御旨と善を行なう聖なる器にならなければなりません。

祈り:主よ!私が束の間の快楽のために、たましいを売らず、聖なる霊的な戦闘に、自分をささげるように、助けてください。

一言:義の器として、神様にささげよう



2015年 04月 24日 (金)

ローマ6:15-23
罪の奴隷か、義の奴隷か

 ある人々は、「私たちが今、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯しても良いのではないか」と考えます。しかし、私たちが罪を犯すようになれば、再び罪の奴隷になります。その罪が積み重なると、結局は死の実を結びます。私たちは、過去罪の奴隷として生きていましたが、イエス様の恵みによって、罪から解放され、神様の子どもになりました。すると、今私たちは神様に聞き従うことで、義に至らなければなりません。罪の奴隷ではなく、義の奴隷として、生きなければなりません。私たちが恵みの下にあるからといって、その恵みを乱用してはいけません。主が私たちを罪から解放させてくださり、自分に恵みをくださったのは、軽々しく生きても良い、というわけではありません。恵みの中で、義を行ない、義の実を結ばせるためです。それで、私たちは積極的に、義の奴隷になるために、力を入れなければなりません。
 私たちは、肉体の弱さを言い訳にして、私たちの手足を汚れと不法にささげてしまいがちです。しかし、その時、必ず羞恥の実を結び、不義と絶望と運命に陥るようになります。死の苦い実を取って食べるようになります。私たちは今、自分の手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進まなければなりません。聖潔に進む過程は、決してやさしいものではありません。しかし、その実は値打ちのある、貴いものです。その結果は、永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神様の中で、義を行なう者には、永遠のいのちが報酬として与えられることを、心に刻んでいなければなりません。今すぐに何か楽しむことより、最後の実が何であるのかを、考える者が本当に知恵ある人です。

祈り:主よ!私が主のくださった恵みを乱用せずに、義を行なうのに力を入れ、聖潔に進むように助けてください。

一言:聖潔に進もう


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