聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2015]

2015年 04月 25日 (土)

ローマ7:1-13
新しい御霊によって

 律法は、私たちにとって、あまりにも水準が高く頭の堅い夫のようなものでした。そのような夫と住む妻は、夫の高い要求に至ることができず、幸せになることができませんでした。しかし、女は、夫が死ぬと、夫から解き放たれ、自由になります。神様は、私たちをキリストとつなぎ合わせ、キリストと共に死に、新しいいのちで生まれ変わらせてくださいました。すでに死に、新しい存在として生まれたので、これ以上、律法の拘束を受けなくなりました。律法の拘束力がなくなってしまいました。今、私たちは律法から抜け出したので、律法に縛られる律法的な信仰生活から抜け出さなければなりません。これは、形式的な信仰生活から抜け出さなければならない、という意味です。形式的な信仰生活には、自由と平安、愛と喜びがありません。今は、新しい御霊によって、神様に仕えなければなりません。神様から新しい御霊を受けて、新しい心で、神様に仕えなければなりません。そうする時、神様のために、実を結ぶことができます。
 律法が私たちを死に至らせましたが、律法が罪であったり、あまり良くないものであったりするのではありません。律法がなければ、罪を知ることがありませんでした。律法は、その人のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。結局は、律法は聖なるものであり、正しく、また良いものです。今日の私たちにも、律法は聖なるものであり、正しく、良いものです。世の価値観と倫理が歪んでいます。私たちが神様の御言葉の前に出て行く時にだけ、真実に自分を見ることができます。神様の御言葉によって進み出る時にだけ、自分がキリストに進みでることができます。

祈り:主よ!私がこれ以上、律法に縛られず、新しい御霊によって、神様に仕えることができるように、助けてください。

一言:新しい御霊で神様に仕えよう



2015年 04月 26日 (日)

ローマ7:14-25
キリストのゆえに

 律法は良く、霊的なものです。ところが、使徒パウロは、良く霊的な律法を行なえない自分の問題を告白しています。罪の下に売られ、願っていることを行なうことができず、むしろ自分が憎むことを行なっている自分について、話しています。パウロは、神様の教えを喜んでいました。神様を喜ばせようとする内なる人の願いが、あまりにもはっきりとしていました。しかし、肉体は弱く、罪人でした。願ってもいない悪を行ないました。パウロは、このような自分のために、あまりにも苦しみ、絶望しました。これは、使徒パウロがイエス様を信じた後の告白だと信じます。パウロの告白を見ると、生まれ変わった人に、善と悪の葛藤があるのは異常なのではなく、正常であることが分かります。聖書は、「信仰が成熟すると、咎がなく、葛藤もない」とは言っていません。むしろ、もっと神様を知って行くうちに、パウロのように告白するしかありません。パウロは偉大な神様のしもべでしたが、神様の御前で、真実で、熾烈な霊的な戦いを担っていました。私たちも、パウロのように、真実で、熾烈な霊的な戦いを担わなければなりません。
 パウロは、自分に対する絶望と嘆きで、終わらせませんでした。彼は、神様とイエス・キリストを仰ぎ見て、感謝するようになりました(25)。彼の嘆きと絶望は、感謝と賛美に変わりました。キリストを仰ぎ見ない霊的な目は、むしろ絶望とやみに陥らせます。私たちは、罪人である自分に対して無力になり、絶望することで終わらせてはいけません。キリストを仰ぎ見なければなりません。

祈り:主よ!私が罪深い自分を仰ぎ見ながら絶望せずに、主イエス・キリストを仰ぎ見ることができるように、祈ります。

一言:キリストを仰ぎ見よう。


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