2015年 06月 05日 (金)
本当のイスラエル
しかし、彼らは、このキリストを十字架につけてしまいました。では、彼らによって、神様の御言葉が無効になったのでしょうか。いいえ。そうではありません。
6b節をご覧ください。「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、・・・」信仰の先祖アブラハムの子どもは、イシュマエルとイサクです。ところが、イサクから出る者が「アブラハムの子孫」と呼ばれるようになると記されています(7)。神様がアブラハムに約束された子どもがイサクです。
また、先祖イサクの妻リベカによって生まれた子どもたちに対しても、そうです。リベカがみごもった時、その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神様の選びの計画によって、ヤコブが選ばれました。神様はリベカに言われました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
神様はモーセに言われました。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分をいつくしむ者をいつくしむ。」神様の御業は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神様によるものです。今日、私たちが救いを受けたのも、一方的な神様の恵みによるものです。まだ、母の胎内にいた時から、神様は私たちを選び分けてくださいました。
祈り:主よ!主がこの私を選び分けられ、約束の子としてくださり、感謝します。
一言:ご自分の御旨によって選ばれる神様
2015年 06月 06日 (土)
陶器を作る者のたとえ
「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょうか。」しかし、人は全能なる神様に言い逆らうことはできません。
神様と人間の関係は、まるで陶器を作る者と、土のかたまりにたとえることができます。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも造る作ることができます。かたや、100円のお茶碗もあれば、一億円もする壺もあるのです。それを、陶器を作る者が、同じ土から思いのまま、作るのです。その陶器を作る者に対して、その器が、「なぜこのような体にしたのか、」と抗議することができるのでしょうか。
神様がお造りになった器には、滅ぼされるべき怒りの器がありました。しかし、神様は、その器に対して、豊かな寛容をもって忍耐してくださいました。それも、神様が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださいました。神様は、ユダヤ人だけではなく、異邦人の間にも、救いの御業を成してくださいました。
使徒パウロは、「義を追い求めなかった異邦人は義を得た。」と言っています。また、イスラエル人に対しては、「義の律法を追い求めながら、その律法に到達しなかった。」と言っています。異邦人は信仰によって、義と認められましたが、イスラエルは行ないによって義を得ようとしたため、救いに至りませんでした。
祈り:主よ!滅ぼされるべき怒りの器である私たちを、あわれての器として選ばれ、その豊かな栄光を知らせ、救いの御業を成してくださり感謝します。
一言:あわれみの器
2015年 06月 07日 (日)
救いに至る道
1.神様の義に従わないイスラエル(9:30-10:4)
使徒パウロの切なる祈りの課題は、イスラエルが救いを得ること、です。しかし、イスラエルは、神様には熱心でしたが、黙示による本当に知識には従わず、人々が作り出した教えには従いました。彼らは神様の義を知りませんでした。自分の義を立てようと熱心であり、神様の義に服従しませんでした(3)。神様の義はイエス・キリストです。彼らはキリストを信じなかったことで、神様の義が得られず、つまづいてしまいました。
2.万民が救いを得る道(5-13)
律法によって、義と認められとする人々は、善を行なったり、苦行を行なうことで、義を表そうとします。自分の努力によって、天に上ろうとしたり、陰府に下りて行こうとします。これは、キリストを引き降ろす罪であり(6)、死者の中から引き上げる罪です(7)。
救いの道は遠くにあるのではありません。私たちの口と心にあります。第一に、口でイエス様を主と告白すればいいです。第二に、神様が、イエス様を死者の中からよみがえられてくださった、と心で信じることです。心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。救いは、決して、人の行ないや努力によって到達するものではありません。ただ、信仰による義によって、得られるものです。
祈り:主よ!私が傲慢で、自分の義を主張し、イエス様の御業を蔑んだ罪を悔い改めます。私が、複雑な考えを捨て、単純に、イエス様を受け入れます。
一言:心で信じ、口で告白する
<<(1) 前のページ(8) 9 次のページ(10) (16)>> |