聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2006]

2006年 09月 01日 (金)

Ⅰコリント1:1-9
神様は真実であり


Ⅰ.聖徒として召される神様(1-3)

 パウロは神様の御旨と召されによって、キリストの使徒になりました。コリントの聖徒たちもやはり、神様の御旨に従ってキリスト・イエスの中で、聖なるものとされ、聖徒として召されました(2)。罪深いコリントの人々が聖なる神様の子どもになり、このような都市に神様の教会が建てられたのは驚くできことです。これは完全に神様の御旨と召されによって可能になったのです。

Ⅱ.最後まで堅く保ってくださる神様(4-9)

 問題が多いコリント教会に手紙を書きながら、パウロはまず神様が彼らに施された恵みを感謝しています。それは、第一に、全てのことばと知識において豊かな者になったこと、第二に、キリストについてのあかしが彼らの中で確かになったこと、第三に、どんな賜物にも欠けることがないこと、第四に、私たちの主イエス・キリストの現われを待っていることです(5-7)。更に進んで、パウロは、神様が彼らを主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださることを信じました。というのは彼が真実な神様の召されの恵みと望みの中で彼らを見たからです(9)。牧者にこのような望みと確信がある時、弱い羊たちをさばいたり、あきらめずに、最後まで仕えることができます。望みの忍耐と愛の労苦を担うことができます。私たちが目を上げて、真実な神様を仰ぎ見なければなりません。


祈り:主よ!主の召されの恵みと望みを感謝します。弱い私が真実な主を仰ぎ見る時、新しい力が出ます。

一言:真実な神様



2006年 09月 02日 (土)

Ⅰコリント1:10-17
キリストが分割されたのですか


Ⅰ.キリストを中心に一致してください(10-13)

 コリント教会には分裂がありました。当時の有名な使徒たちであるペテロとパウロとアポロを中心とした派閥が形成されました。もちろんこのような派閥は使徒たちが作ったものではなく、それぞれ使徒たちを尊敬した聖徒たちの間に生じたものです。それぞれ使徒たちを尊敬していた聖徒たちは、自分たちが尊敬する使徒を互いに誇り、そうしていくうちに派閥が生じました。彼らの問題は使徒たちを尊敬するあまり、まるでキリストであるかのように思った点です。使徒パウロは彼らに言います。「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」彼らはみなキリストの中に属しています。それでみなが同じ心、同じ判断で一致しなければなりません。私たちの間でもそうするべきです。

Ⅱ.福音を宣べ伝えさせるためです(14-17)

 コリントの聖徒たちの間で、ある人はペテロからバプテスマを受けたことを誇り、他の人はパウロから、また別の人はアポロからバプテスマを受けたことを誇りました。それで水のバプテスマがむしろ彼らを分裂させる原因になってしまいました。彼らは、バプテスマが与える霊的な益をあまりにも大きく考えていたのです。しかし人を救うのはキリストの十字架の福音です。人の知恵は分裂を招きます。しかし十字架の福音を受け入れ、熱心に宣べ伝える時、分裂はなくなります。


祈り:主よ!私たちの集まりが、完全に主を中心に迎え入れて、福音を宣べ伝えることだけに力を入れるように助けてください。

一言:キリストの中で一つ



2006年 09月 03日 (日)

Ⅰコリント1:18-25
神様の知恵と人の知恵


Ⅰ.十字架のことば(18-21)

 信じない人々には、イエス様の死は失敗であり敗北のように見え、十字架のことばは弱く愚かに見えます。しかし福音を受け入れる人には十字架のことばは救いであり、力です。なぜならイエス様が私たちの罪を背負い、死を征服されたからであり、それを信じる時、死を征服したその力が人を救うからです。十字架のことばによる神様の力でなければ、人が救いを得ることはできません。それで十字架のことばを信じない人は滅びるしかありません。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神様の力です。

Ⅱ.神様の力、神様の知恵であるイエス様(22-25)

 十字架につけられたイエス様は、しるしを要求したユダヤ人にはつまづきになります。知識を追求したギリシヤ人には愚かなことです。しかしパウロは十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えます。というのは、ただ召された者にとっては、ユダヤ人であっても、ギリシヤ人であっても、キリストは神様の力であり、神様の知恵だからです。世は人を救う知恵を探しさまよいます。ユダヤ人のようにしるしを要求し、ギリシヤ人のように知恵を追求します。ところがしるしも世の知恵も人を救いに至らせることはできません。ただ十字架につけられたキリストだけが人を救いに至らせる神様の知恵です。


祈り:主よ!私に霊的な目をくださり、キリストが神様の知恵であり、力であることを知り、堅く信じるように助けてください。

一言:キリストだけが神様の知恵であり、力である。



2006年 09月 04日 (月)

Ⅰコリント1:26-31
主にあって誇れ


Ⅰ.神様の御業の方法(26-29)

 コリントの聖徒たちの中には、知恵のある者が多くいなかったのです。能力のある者や知者も多くいませんでした。むしろこの世で愚かな者、弱い者、取るに足りない者、貧しい者が多くいました。ところが神様は愚かな者を選ばれ、知恵ある者をはずかしめ、この世の弱い者を選ばれ、強い者をはずかしめ、この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を選ばれ、有るものをない者のようにされました。それで世のどの肉も神様の前で誇ることができなくされました。イエス様は、神様が賢い者や知恵のある者にはその秘密を隠された、と言われました(ルカ10:21)。それで誰もその肉体を誇ってはならず、また人間条件が少し不利だからといって絶望する必要もありません。むしろ感謝しなければなりません。

Ⅱ.主にあって誇れ(30,31)

 私たちがイエス様のうちにあるのは、ただ神様の恵みと愛のゆえです。イエス様のうちにある祝福を受けるために私たちがしたことは何もありません。私たちのうちには、いかなる善も義もありません。ただ神様から出て来られたキリスト・イエスが私たちの義と聖めと、贖いとになられます。それで私たちは人を誇るのではなく、イエス様を誇らなければなりません。


祈り:主よ!弱く卑しい者を尊く用いられることを感謝します。私の誇りは主のほかにありません。

一言:イエス様を誇れ


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