聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2006]

2006年 09月 13日 (水)

Ⅰコリント6:1-11
互いに訴え合ってはいけません


Ⅰ.聖徒は世界をさばくようになります(1-7)

 互いに信仰のある兄弟同士が、世の法廷に立って、互いに訴え合う場合があります。しかしこれはあってはならないことです。信じる者は神様の子どもです。信じる者は世の人々のさばきを受ける存在ではありません。信じる者(聖徒)はむしろ世界をさばくようになります。それだけではなく御使いをもさばくべき者です。そのため信じる者が兄弟を世の法廷に告訴し、不信者のさばきを受けることは正しいことではありません。信者の問題はどこまでも神様の御言葉に基づいて、信仰によって解決しなければなりません。また教会の中にある賢い者を通して、解決するようにしなければなりません。互いに訴え合うことよりは、不正を甘んじて受けたり、だまされたほうがいいのです(7)。

Ⅱ.聖徒は神様の御国を相続する人です(8-11)

 兄弟を訴えることは、不正を行なうことであり、だまし取ることです。正しくない者は偶像を礼拝したり、姦淫をする者のように、決して神様の御国を相続することができません。信じる者は主イエス・キリストの御名と神様の御霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義と認められた者です。それゆえ、わずかな損害やしばしの悔しい思いをしないために、兄弟を世の法廷に訴える不正を行なってはいけません。


祈り:主よ!私が兄弟を非難し、また争ったことを悔い改めます。私が兄弟と争うことより、一層のこと損害をこうむります。

一言:損をしたほうが良い



2006年 09月 14日 (木)

Ⅰコリント6:12-20
不品行を避けなさい


Ⅰ.不品行を避けなさい(12-18)

 私たちがすべてのことを許されたからといって、すべてが益になるわけではありません。私たちは何でもすることができますが、私たちのからだを主のためにささげ、神様が用いられるようにしなければなりません。

 私たちのからだはキリストの肢体すなわちキリストのからだの一部です。ところがキリストのからだである私たちのからだを、なぜ遊女に差し出すことができるのでしょうか。不品行はキリストを汚す行ないです。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われた御言葉のように、遊女と交わる者は遊女のように汚れたからだになり、またそのたましいも遊女のように汚れます。このような者には決して神様の聖なる御霊が働くことができません。それでどんな罪よりも、不品行を避けなければなりません。人が犯す罪はすべて、からだの外のものですが、ただ不品行だけは自分のからだそのものを汚す致命的な罪です。

Ⅱ.自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい(19,20)

 信者のからだはキリストのからだであるだけではなく、「聖霊の宮」です。信じる者のからだには神様から受けた聖霊が住まわれます。神様は、私たちを罪から自由にしようとキリストの血の代価を払って、私たちのからだを買い取られました。私たちのからだは私たちのものではなく、神様のものです。それで決して不品行を行なってはいけません。私たちのからだを生きた供え物として神様にささげ、神様の栄光を現さなければなりません(ロマ12:1)。


祈り:主よ!今私のからだがキリストのからだであり、聖霊の宮であることを悟るようになりました。不品行を避け、私のからだを生きた供え物として神様にささげられるように祈ります。

一言:不品行を避けなさい


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