2006年 09月 19日 (火)
福音のために権利を用いなかったパウロ
Ⅰ.使徒としての権利(1-11)
パウロは、自分がイエス・キリストの使徒であることを、強調します。パウロがイエス様の十二弟子の一人ではないからといって、パウロを使徒として認めない者たちもいましたが、少なくともコリントの聖徒たちは皆がパウロを認めました。それで彼にも他の使徒のように飲み食いする権利、結婚して妻を連れて行く権利、教会から生活費をもらう権利がありました。これは兵士が給料をもらい、ぶどう園の農夫がその実を食べ、羊飼いが羊の群れの乳を飲むように当然のことです。コリントの聖徒たちがたましいの糧を供給するパウロに仕え、生活を保障することは当然のことです。
Ⅱ.福音のために権利を放棄したパウロ(12-18)
パウロは自分が使うことのできる権利を用いずに、すべてのことについて耐え忍んで福音を伝えていますが、それは福音に少しの妨げを与えないためでした(12)。使徒パウロは自分の権利を主張することより、福音が宣べ伝えられることをもっと大切に思いました。だからといって、彼が福音を伝えようと骨を折っていることを誇りに思っているのでもありません。彼は福音を宣べ伝えなかったら、自分はわざわいに会うと思いました(16)。それでパウロは報酬を受けずに福音を宣べ伝え、また権利を十分に用いないことを、むしろ大きな報いと思いました(18)。福音を伝える人は多くの権利を持っていますが、福音のために十分に用いないようにすることも必要です。
祈り:主よ!私が主のしもべとして多くの権利を受けることより、福音のために放棄できるように祈ります。
一言:福音のために権利を放棄することもできる
2006年 09月 20日 (水)
すべての人に、すべてのものとなったパウロ
Ⅰ.自由ですが、奴隷となったパウロ(19-23)
パウロは、ユダ人にはユダヤ人のようになり、ギリシヤ人にはギリシヤ人のようになり、弱い人々には弱い人のようになりました。また、律法を持たない人々には律法を持たない者のようになり、律法がある人々には律法がある者のようになりました。彼は誰に対しても自由でしたが、このように全てのものの奴隷になったのは、少しでも多くの人を得るためでした。パウロは福音を伝え、人を救うためにはどんな人にもなることができる真の自由人でした。
Ⅱ.自分のからだを打ちたたいて従わせたパウロ(24-27)
競技場で走る人たちは多いですが、一人だけが賞を受けることができます。それで競技で勝つことを願う人は、あらゆることについて自制します。使徒パウロは、はっきりとした目標に向かって走り、空を打つような拳闘もしてはいません。彼は自己管理を徹底的に行なう選手のように絶えず自分のからだを打ちたたいて従わせました(27)。彼がこのように自制することができたのは、他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためでした。世のスポーツ選手も朽ちる冠を得るために、厳しい練習をしているのに、ましてや朽ちることのない冠を得るために信者たちはどれだけ多くの闘争をしなければならないのかを、考えてみましょう。
祈り:主よ!私が一人でも多くの人を得るために、すべての人に、すべてのものになるように、祈ります。
一言:すべての人に、すべてのものになろう
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