聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2006]

2006年 09月 23日 (土)

Ⅰコリント11:1-16
男と女の霊的な秩序


Ⅰ.女の頭にかぶり物を着ける意味(1-10)

 パウロは、礼拝をする時、男は何もかぶらず、女は必ず頭にかぶり物をするように、命じました。なぜなら男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神様だからです(3)。もし男が頭にかぶり物をして祈りや預言をする時、それは自分の頭をはずかしめることであり、女が頭にかぶり物をせずに祈りや預言をすることは、自分の頭をはずかしめることになり、髪をそっているのと全く同じことです(5)。なぜなら男は神様の似姿、神様の栄光の現われであり、女は男の栄光の現われだからです。それで女が頭にかぶり物を着けることは権威の下にいるしるしを、その頭にかぶっているようなものです(10)。これは女が男から生まれ、女は男のために造られたというしるしです。それで女が頭にかぶり物を着けることは、男女間の創造の秩序を認めるという意味があります。

Ⅱ.すべては神様から発しています(11-16)

 しかし主にあっては、男を離れて女だけはなく、女を離れて男だけがあるのではありません。女が男をもとにして造られたように、男も女から生まれ、結局すべては神様から発しているのです(11,12)。男と女は本質的には同等です。ただ役割が違うだけです。男と女は相互補完的な存在です。この真理を知る時、本当の同労を成すことができ、神様を喜ばすことができます。


祈り:主よ!この時代、男と女が主にあって霊的な秩序を守り、互いに同労し、愛するように助けてください。

一言:平等だが、秩序を守ろう



2006年 09月 24日 (日)

Ⅰコリント11:17-34
主の晩餐の意味と姿勢


Ⅰ.主の晩餐の意味(17-26)

 当時、教会では礼拝が終わると、主の聖餐を記念するために各自が持ち寄って来た食物を分けて食べていましたが、これを「愛餐」(主の晩餐)と呼んでいました。ところがこの愛餐を巡って、多くの問題が生じました。すなわち彼らは徒党を組んで、お金持ちはお金持ち同士が、貧しい者は貧しい者同士が食べたために、お金持ちはあまりにもたくさん食べ酔ったのに対し、貧しい人々は食べる者がなくてお腹を空かせました。使徒パウロは彼らを咎めた後、主の晩餐の本当の意味を教えました。「主の聖餐」はイエス様が逮捕された晩、自ら弟子たちに命じられたものです。パンはイエス様のからだであり、杯はイエス様の血です。イエス様は、杯とパンを飲んで食べることでイエス様の死をいつまでも記念するように、命じられました。それで主の晩餐は私たちのために十字架につけられ、肉が引き裂かれ、尊い血を流されたイエス様を愛し感謝し、記念するものです。それで愛のない主の晩餐は何の意味もなく、むしろ主の晩餐を冒涜することになるのです。

Ⅱ.主の晩餐に臨む姿勢(27-34)

 誰でも、主のパンや杯を、ふさわしくないままで飲み食いする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。それでまず自分を吟味したうえで、パンを食べ、杯を飲まなければなりません。主の晩餐を、単に飲み食いするものだと考える人は、自分をさばくことになります(29)。


祈り:主よ!私が主の晩餐の意味をよく知らなかったことを悔い改めます。これからはきよい心で主のパンと杯を食べます。

一言:食べて飲む時ごとに、イエス様を記念せよ


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