2013年 03月 05日 (火)
権利よりも福音を優先させるパウロ
1.私は使徒ではないのでしょうか(1-14)
パウロは、「私は使徒ではないのでしょうか。」と尋ねました。コリントの教会員たちの中には、パウロの使徒権を認めない人たちがいました。しかし、パウロが使徒であることは、コリントの聖徒たち自身が証印となります(2)。
パウロは、ほかの使徒たちのように、飲み食いする権利、結婚する権利、生活費をもらって使う権利がありました。それは、人の例や聖書的に見て、はっきりとしたものでした(7,8)。聖徒たちは、たましいの霊の食物を供給する主のしもべに仕え、生活を保障するのは当然のことです(13,14)。
2.使徒権を全て用いなかったパウロ(15-18)
パウロは、使徒としての権利を一つも用いませんでした。全ての苦難に耐え、自給自足し、福音を宣べ伝えました。それは、キリストの福音に何の障害もないように、するためでした(12)。これは、誰かが、させたから、行なったのではありません。パウロが志願して、担いました。
パウロは、自分の特権よりも、福音の御業を尊く思いました。しかし彼には、誇りがなく、謙遜でした(15)。パウロは、報酬なしに福音を宣べ伝え、その権利を使わないことを、大きな報いとして考えました(18)。私たちは、多くの特権を受けることができますが、福音伝道の有益のために、何も使わない信仰がなければなりません。
祈り:主よ!この地のすべての主のしもべたちが、自分の権利より、福音を先立たせることで、福音がさらに広く伝えられるようにしてください。
一言:権利より福音
2013年 03月 06日 (水)
多くの人の奴隷になったパウロ
1.全ての人の奴隷となったパウロ(19-23)
使徒パウロは自由人で、ローマの市民権を持っていました。キリストの内に、本当の自由を得た人でした。しかし彼は、全ての人の奴隷となりました(19)。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシヤ人にはギリシャ人のように、野蛮人には野蛮人のようになりました。これは、さらに多くの人を得るためでした。人はそれぞれ、固有の文化と習慣を持っています。それで、彼らを主に導くためには、深い理解と愛が必要です。一人を得るためには、すべての姿で自分を低くし、謙遜に彼らのしもべにならなければなりません(22,23)。
2.自分のからだを打ちたたいて従わせるパウロ(24-27)
競技場で走る人は多くいますが、賞を受けるのはただ一人です。闘技をする者は、自制します。パウロは、まるで競技に出るチャンピオンのように、絶えず自分のからだを打ちたたいて従わせました(27)。それは、ほかの人に宣べ伝えておきながら、彼自身が失格者になることのないためです。スポーツ選手は、朽ちる栄光を得るために、血の汗を流す訓練を積み重ねます。このように主のしもべたちも、朽ちないいのちの冠を得るために、さらに熱心に闘争をし、自分と戦って勝たなければなりません。すると、成功する伝道者になることができます。
祈り:主よ!私がパウロのように、全ての人のしもべになるために、血の汗を流す霊的な闘争を担うように、助けてください。
一言:全ての人には、全てのものに
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