聖書別日ごとの糧   >>   ガラテヤ[2005]

2005年 06月 17日 (金)

ガラテヤ人への手紙6:1-10
善を行なうのに飽いてはいけません


Ⅰ.互いに重荷を負い合い(1-5)

 クリスチャンは自分に対しては厳格であり、他人に対しては寛大でなければなりません。キリストの律法は愛です。私たちは他の人が罪を犯したことが分かった時、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。それだけではなく、自分自身を顧みて、自分自身もその誘惑に陥らないように気をつけなければならないのです(1)。クリスチャンは互いの重荷を負い合わなければなりません。これはお互いに苦しみを分け、互いに愛し合うことです。そのようなことをする時、私たちはキリストの律法を全うすることができるのです。もし誰かがりっぱでもないのに、自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら他の人の重荷を負うことはできません。しかしクリスチャンは自分が負うべき基本的な責任を果たさなければならないのです(4,5)。

Ⅱ.善を行なうのに飽いてはいけません(6-10)

 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合わなければなりません(6)。自分に御言葉を教える人を尊く思い、よく仕えれば神様から祝福を受けるのです。

 私たちは思い違いをしてはいけないのです。神様は決して侮られるような方ではありません。人が何かを蒔けば、必ず蒔いた通りに刈り取るのです(7,8)。それで私たちは時期になると必ず良い実を刈り取るようになることを信じて、失望せずに善を行なわなければならないのです。


祈り:主よ!私が他人の重荷を背負うことでキリストの律法を全うし、失望せずに熱心に善を行なうことができるように助けてください。

一言:蒔いた通りに刈り取るのです



2005年 06月 18日 (土)

ガラテヤ人への手紙6:11-18
十字架だけを誇りとするパウロ


Ⅰ.肉において外見を良くしたい人たち(11-13)

 律法主義者たちは割礼を重視し、割礼を受けなければ救いを受けることができない、と主張しました。しかし割礼は従順のしるしであり、それ自体が救いの条件になることはありません。彼らが律法を守らずに、肉の割礼を強調したのは肉の形を表すことで肉を誇ろうとしたためです。それだけではなく、キリストの十字架によって受ける迫害を避けようとしました。彼らは神様から認められることより、人々から認められ賞賛されることを求める人々でした。

Ⅱ.十字架だけを誇りとするパウロ(14-18)

 ところが使徒パウロは違いました。彼には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してありませんでした(14)。彼は世界に対して死んだ者でした。世界は彼には何の意味もありませんでした。彼には、イエス・キリストの中で新しく造られたものだけが意味がありました。そのため、彼は世界で誇るものはすべて排泄物のように思いました。彼は十字架だけを誇る十字架の人でした。彼はその身にイエス様の焼印を帯びている人でした(17)。


祈り:主よ!使徒パウロのように、ただイエス・キリストの十字架だけを誇る福音の使徒になるように助けてください。

一言:十字架だけを誇りとしよう


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