聖書別日ごとの糧   >>   ピリピ[2022]

2022年 11月 01日 (火)

ピリピ人への手紙1:1-11(3,4)
あなたがたを思うたびに感謝しています

 パウロは投獄されて、牢の中でこの手紙を書いています。彼はピリピの聖徒たちのことを思うたびに神様に感謝し、彼らのために祈るたびに、喜びが溢れました。それは、彼らが今まで福音を伝えることに携わってきたからです。ピリピ教会は、パウロがヨーロッパ宣教に行った時に、初めて開拓した教会です。彼らは決して裕福ではありませんでした。けれども、彼らは福音の御業のために心を尽くして、物心両面からパウロを支援しました。今も投獄されているパウロのところにエパフロディトを遣わしてサポ-トをしていました(4:18)。ピリピの聖徒たちに対するパウロの気持ちは感謝にあふれていました。いつも彼らを心に留めていました。彼らは、パウロが投獄されている時も、福音を弁明し立証している時も、パウロと共にいました。パウロは神様の前で証しするほどに、キリスト・イエスの愛の心をもって、彼らを慕っていました。私たちも福音の御業のために共にしている同労者たちのことを思うたびに感謝し、祈るたびに喜びをもって祈りましょう。

 パウロは彼らの間で良い働きを始められた方が、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると確信していました。福音は、私たちを愛し、救ってくださった神様の救いの御業です。これは、神様が責任をもって最後まで完成させてくださいます。福音の力を知っているパウロは、彼らがどんな点で成長せねばならないのかを考え、祈っています。神様の愛がますます豊かになるように祈っています。神様の愛に関する知識、これを行うことのできる知識とあらゆる識別力が与えられるように祈っています。また、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされるように祈っています。



祈り:主よ!私たちを愛し、その恵みを分かち合う同労者たちを与えてくださったことを感謝します。私たちが愛の共同体としてこれからも互いに喜び、祈りあえるように助けてください。

一言:ありがたい同労者たち



2022年 11月 02日 (水)

ピリピ人への手紙1:12-18(12)
福音の前進に役立ったこと

 福音の御業に忠実であったパウロが投獄されたことを聞いて、ピリピの聖徒たちは心を痛めました。パウロは彼らに、自分の身に起こったことの意味について説明します。パウロが囚人となって閉じ込められているのは、福音が宣べ伝えられるためです。パウロは自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと言っています。

なぜそうなのでしょうか。パウロはロ-マ皇帝の親衛隊に監視されていましたが、彼らに福音を伝え、彼らが救われるチャンスが与えられたからです。次に、パウロの投獄によって、福音を伝えることを恐れていた人々が勇気を得て、恐れることなくますます大胆に御言葉を語る御業が起ったからです。それだけではありません。パウロを憎んでいた人たちは、パウロがいなくても福音の御業は起こることを思い知らせてやろうと、ねたみ、争いや党派心からキリストを宣べ伝えました。純粋な動機からではありませんでしたが、パウロは理由がどうであれ、キリストが宣べ伝えられているので喜んでいると言っています。パウロは自分の置かれている境遇を案じて落胆するどころか、それによって福音が前進していることを感謝し、喜びました。

人はたいてい、福音を宣べ伝えることで迫害を受けたり、投獄されたりするようなことが起こると、福音の御業は終わったと思いがちです。しかし、福音精神に徹していたパウロは、そうは思いませんでした。かえって、最悪の環境と条件の中でも福音の前進を成し遂げることができました。



祈り:主よ!困難の中にあっても私たちが福音を宣べ伝え続けることができるように、またその状況さえも御業のために用いてくださり、主とともに喜びを分かち合うことができるように助けてください。

一言:かえって福音の前進



2022年 11月 03日 (木)

ピリピ人への手紙1:19-30(20)
キリストがあがめられること

人なら誰しも恐れる死を、恐れない人々がいます。パウロは、キリストによって生死の問題を超越した神の人でした。彼は「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」と言います。パウロは、十字架で死なれ、復活されたイエス様と一つになっていて、天の御国も経験した者として、死ぬのが怖くありませんでした(Ⅱコリント12:2,3)。

そんな彼が切に期待し望んでいることは、第一に、どんな場合にも恥じることなく生きることです。パウロはピリピの聖徒たちに「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と命じています。これは、主の民らしく実生活において御言葉に聞き従い、恥じることのない生き方をしなさいという意味です。また、キリスト・イエスの立派な兵士として霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦うようにと言います。さらに、キリストのために苦しみもともにするように言います。主の民は生きるにしても死ぬにしても、福音にふさわしく生活し、恥じることがあってはなりません。

第二に、生きるにしても死ぬにしても、自分の身によってキリストがあがめられることです。パウロは、肉体において生き続けても、世を去ってキリストとともにいても、どちらでもかまわないと言います。いっそのことなら、肉体を離れてキリストと共にいることが、はるかに望ましいと言います。それでも肉体にとどまるのは、ピリピの聖徒たちの信仰の前進と喜びのためでした。パウロは聖徒たちのために生きながらえて、福音の働きが実を結ぶことを望みました。自分の身によってどうにかキリストが表れ、宣べ伝えられ、あがめられることを願いました。パウロは復活信仰によって死に打ち勝ったキリストの立派な兵士としての人生を生きました。



祈り:私たちがどんな時にも恥じることなくキリストの恵みを表し、福音と信仰のために生きるように助けてください。

一言:キリストがあがめられること


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