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14Genesis 5M神様の哀れみと祝福

14genesis, 5m神様の哀れみと祝福, 2014年創世記第5講 神様の哀れみと祝福御言葉:創世記4:1〜5:32要, 節:創世記4:25, 26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。?.カインとアベル, 1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3, 9)。?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4, 32) 16, 24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2, 24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22, 24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。, 」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3, 000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい, 箴言3, 」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis9M あなたの名は祝福となる

14genesis9m, あなたの名は祝福となる, 2014年創世記第9講あなたの名は祝福となる御言葉:創世記11:27−12:20要 節:創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 今日、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に遣わす派遣礼拝をささげるように導いてくださった神様に感謝します。二人の前で言うことは失礼なことですが私はこの二人にさまざまな面で助けられて来ました。また二人の謙遜と忠実さから教えられる時も多くありました。ほんとうにこの教会にも多大な影響を及ぼして来たと思います。だから、この家族を福岡に遣わしたくありませんでした。なんとか東京に戻って来てほしいと思っていました。私にはバベル塔を建てたノアの子孫たちのように、彼らと一緒にこの東京ubf教会を大きくして行きたいという心もあったのです。しかし、神様は私たちが一つのところに集まってバベル塔を建てることより、散らされて行くことを望んでおられました。神様はアブラハムを召して祝福し、彼を通してすべての民族が祝福されるようにしたようにヨセフ宣教師家族を祝福し、彼らを通して九州大学の学生たち、福岡の人々も祝福されることを望んでおられます。 ですから、神様は派遣礼拝の御言葉として創世記12章の御言葉を与えてくださったと信じます。実際に今日の本文は派遣礼拝だから私が特別に選んだのではありません。私たちが選んだ聖書の個所でもありません。私たちは16日に派遣礼拝をささげようとしていました。そうなったら派遣礼拝の御言葉が12章ではなかったはずです。ヨセフ宣教師の事情があって一週間前にしたのですが、不思議にも創世記メッセージの順番が12章になっているのです。神様の導きに驚き、心から感謝します。では神様はアブラハムをどのように召され、どのようにして遣わされたでしょうか。アブラハムは神様の召されに対してどのように反応したでしょうか。この時間、アブラハムの神様を深く学び、御言葉を聞いて従ったアブラハムも深く学ぶことができるように祈ります。先週、私たちはノアの方舟による新しい歴史は失敗したことを学びました。神様は人々が集まってバベル塔を建てるのをやめさせました。主が人々をそこから地の全面に散したからです。しかし、愛の神様は人間をあきらめませんでした。人類の歴史がバベルの町を建てることで失敗しても全くあきらめませんでした。そして今度は神様とともに歩み、全き人であったノアとは違う人を得られます。神の御心にかなっていたノアのように偉い人ではなく、平凡な人です。偶像崇拝が盛んなところでそこの人々と一緒に偶像崇拝をしている人です。この世の知者でもなく、権力者でもなく、この世の愚かな者であり、この世の弱い者です。75歳の年寄りアブラハム、その年までひとりの子どももいなかったアブラハムを選んだのです。神様はこのアブラハムを通して全く新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられました。そこで、創世記の著者は12章から紹介するアブラハムの歴史を始める前に彼の家族関係と生まれ故郷についても書き記しています。11章27、28節をご覧ください。「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」とあります。アブラムの父はテラです。ヨシュア記24章には彼が偶像崇拝者であったことを記しています。アブラムの3人兄弟の中でハランは父テラの存命中に死にました。後でハランの息子ロトはアブラムが連れて行きます。娘ミルカはナホルの妻になります。そして、アブラムの妻サライがいますが、彼女は不妊の女で、子どもが生まれませんでした。 そこで、テラはアブラム、ロト、サライとを伴い、カナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出掛けました。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住み着きました。そこで平凡な生活をしていたテラは205歳の時に死にました。その時、アブラハムにどんなことがありましたか。12書1節をご一緒に読んでみましょう。「主はアブラムに仰せられた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』」「アブラム」は後に名前を変えられて、アブラハムと呼ばれるようになった人物です。今から4千年ほど前の人で、イスラエル民族の先祖となった人です。神様はアブラハムに「生まれ故郷、父の家」を出て行くように命じられました。年寄りの人が生まれ故郷を出て行くことはそれだけでも厳しいことです。普通はなかなか忍び難いことです。さらに、父の家を出て行くことも大変なことでしょう。今から4000年前の古代社会においては、一切の人間の絆と、身の安全、命の保証すら、捨て去ることを意味します。神様が私たちをお招きになるときにも、「自分を捨てて私に従いなさい」と言われます。それは、私たちにとっても人間の絆、身の安全、いのちの保証すら神様に委ねなさいと言われることでしょう。今まで築き上げてきた人間の絆、自分の安全、生活のすべてを捨てるほどに神様に委ねるということはなかなか厳しいことでしょう。神様のお招きに「はい!」と言って従うことは、やさしくないと思います。ところが、神様は出て行くことを命じるだけではなく、それに伴う祝福も約束してくださいました。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」という言葉が5回も繰り返されています。創世記3章のアダムの堕落から11章のバベルの塔までの間には「呪い」という言葉が何度もありました。そのすべての呪いを覆すような力を感じます。神様は今までの人類の呪いの歴史を、祝福の歴史へと変えようとしておられるのです。その決定的なターニング・ポイント、転換点においてアブラハムの信仰が用いられるのです。ヘブル人への手紙11章によるとアブラハムがそれを聴いて信じたのですが、その信仰が人類の歴史を祝福の歴史に変えて行くターニング・ポイントになったのです。私は個人的に大学1年生の冬が呪われる人生から祝福される人生に変えられるターニング・ポイントになったと思っています。その時、私は神様がアブラハムに与えられたこの御言葉を自分にも与えられたと信じて祝福の人生を始めたからです。その時、牧者宣誓をした私の所感のタイトルは「あなたは福のかたまりになれ, &#45320, &#45716, &#48373, &#45929, &#47532, &#44032, &#46104, &#46972, 」でした。振り返ってみると、その後の私は祝福された人生を生きて来たと思われます。何の問題もなかったわけではありませんが神様から愛され、祝福された人生になったと告白できます。神様に心から感謝しています。神様がアブラハムに約束された祝福は、内容的に考えてみますと、大きく四つ数えることが出来ます。一つ目はアブラハムが大いなる国民となることです。二つ目は彼が祝福そのものになることです。つまり、祝福の源、祝福の基(もとい)となることです。三つ目は彼に土地が与えられることです。四つ目は彼に約束の子、イサクが生まれることです。 先ず、大いなる国民となります。これは、バベルの塔を建てて名を挙げようとして失敗した人々と、ちょうど対照的です。アブラハムの子孫は自分の力によってではなく、神様の祝福によって大いなる国民となるのです。 二つ目にアブラハムは「祝福となる」ということです。これは神様がアブラハムを通して全世界をお救いになるという、約束です。彼が選ばれたことの使命が、この中に語られています。アブラハムは祝福そのものとして救いのみわざに用いられるのです。三つ目にアブラハムに土地が与えられる、と約束されています。7節を見ると神様は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束してくださいました。土地は人間が生きて行く支えです。罪を犯した人類に対する神様の呪いは、全部「土地を追い出される」という形で語られていました。アダムとエバも、カインも祝福されていた土地から追い出されました。農耕社会において人間に土地がないということはとても悲しいことです。私は農民の子どもとして育ちましたからその悲しみと苦しみを少しは理解しています。2011年東日本大地震以後、福島、東北地方の人々が今なお苦しんでいるのは何でしょうか。それは土地を使えなくなっているからです。多くの人々が生存の根拠を奪われ、故郷から出て行きました。ところが、アブラハムには、土地が与えられると約束されているのです。四つ目に、約束の子が生まれることです。具体的に、イサクが与えられます。それは、地上の命が神様によって祝福されていることを意味します。このようにして、不妊の女だったアブラハムの妻サラの胎から子どもが生まれるようになりました。夜空に輝く星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫が生まれるようになったのです。実際に、アブラハムの生存の時に息子が生まれ、その後、すべてが実現されています。では、アブラハムはどのようにお応えしたのでしょうか。4節をご一緒に読んでみましょう。「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけました。彼は「なぜ自分なのか」と問い返すようなことを言いませんでした。具体的な説明も要求しませんでした。彼は問い返す必要も感じなかったようです。ただ、約束してくださった方は真実な方だ、と信じているのです。無条件的に、単純に従いました。ほんとうに幸いな人です。イエス様はトマスに「「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これを、「見ないで(確かめないで)信ずる信仰」とか、「聴いて信じる信仰」と言います。アブラハムの信仰は、「聴いて信じる信仰」です。そして神様は、このアブラハムと共に、新しい、人類を救う歴史を始められました。神様の御言葉を聞いて信じる人はアブラハムのように祝福され、用いられます。 また、アブラハムには感謝と祈りの信仰がありました。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そしてと仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」 「祭壇を築いた」というのは神様への感謝を表したことです。事実、これから展開される彼の人生を見るとこのようにして、祭壇と共にあった生涯でした。私たちの人生の歩みにはいろんなことが起こります。経済的困難な時もあります。精神的に疲れている時もあります。病気、失敗、挫折、そういう暗い道を歩む時もあるのです。でもそのような中でも神様が私たちと共にいてくださいます。私たちを必ずいやし、救い、回復してくださいます。時には試練を通して、私たちを訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。先ほど、私はアブラハムに与えられた約束の御言葉を信じた時が呪われる人生から祝福される人生へのターニング・ポイントだったと言いました。でも、毎日が順風満々ではありません。その後も何度も困難や試練に遭いました。今月、私は弟の墓を造ってあげるために韓国に行きますが、9年前に亡くなった弟の遺骨を葬るためです。私の弟が交通事故で亡くなってから6年の間に私の祖母、父、母が次々天に召されて行きました。愛すると死別することはとても悲しいことです。, 大変つらくて悲しい時期を通りました。でもそのような経験の中で私は人を赦すこと、愛することなどを学び、神様の愛と恵みも強く感じることができました。そして、感謝の祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられるようになりました。それで何事も神様に頼り、祈れるようになりました。アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければならない時を迎えます。それは自分の独り息子イサクを祭壇に献げるということでした。どんなに辛くて大変だったでしょうか。自分が死んだほうがましだと強く感じたでしょう。でもそれを通してアブラハムは神様が御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるということが分かったことでしょう。このようなアブラムの感謝と祈りの祭壇は私たちも常に神様への感謝と祈りが必要であることを教えてくれると思います。それを通して私たちも神様の愛を体験して行くことができるからです。本当に、私たちが神様に自分自身をささげる生活をするときに不思議な神様の祝福も体験して行くことができます。パウロはそれを深く悟ったことでしょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。, ローマ12, 」どうか、私たちが神様の約束の御言葉を信じてアブラハムのように自分自身を神様にささげる生活ができるように祈ります。以上で、私たちはアブラハムの新しい出発、神様の御言葉に動かされて動く祝福の人生を出発したことを学びました。今日の御言葉がヨセフ宣教師と直美牧者の人生においてターニング・ポイントになりますように祈ります。呪いから祝福へ変えられるターニング・ポイントではないでしょう。すでに救われているからですう。でも、私は日本ubfのみわざにおいて一つの家庭から大いなる国民を形成して行くみわざのターニング・ポイントになりますように祈ります。昨日、聞いたのですが、ヨセフ宣教師の長男の禄也は夢の中で多くの友達に御言葉を宣べ伝えていたそうです。その中でお母さんは信仰がない顔をしていたとも言ったそうです。それもあって○○牧者は新しい福岡のみわざを準備して行くために断食祈りを決断したそうです。このような話を聞きながら私は繊細な神様の導きを感じました。神様が子どもの夢を通して福岡開拓のみわざを備えて行かれることも悟りました。これから○○牧者は寂しさも経験すると思います。すると子どもの目には信仰がなさそうに見えるかも知れません。でも、禄也君が夢の中で御言葉を宣べ伝えていたことを思いだしてください。それからアブラハムひとりから夜空の星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫ができたことを覚えていてください。神様が○○牧者家族を大いに祝福して九州大学の学生を始め、福岡の人々を祝福してくださることを信じます。私たちひとりひとり神様の御前で個人的に御言葉を聞いて従いますように祈ります。そうしてほんとうに祝福された人生に変えられて行きますように祈ります。

14Matthew13.一番偉大な者

14matthew13, 一番偉大な者, 2014年マタイの福音書第13講一番偉大な者御言葉:マタイの福音書23:1−39要 節:マタイの福音書23:111.イエス様は、群衆と弟子たちに、何を教えられましたか, 。律法学者やパリサイ人たちの特徴は何ですか, 。「言行一致」の大切さについて、話してみましょう。2.イエス様は、どんな人が、「一番偉大な者」だと言われましたか, 。神様の中で、自分を高くする者と、自分を低くする者は、それぞれどうなりますか, 。3.イエス様は、「どんな人たち」にわざわいがある、と言われましたか, 。彼らの問題は何でしょうか, 15,23, 。4.イエス様は、どのような思いで、「エルサレムの子たち」を集めようとされましたか, 。それを好まなかった彼らはどのようになりますか

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14X-mas2.インマヌエルのイエス様

mas2, インマヌエルのイエス様, 2014年クリスマス特集第2講(新聖歌75番)インマヌエルのイエス様御言葉:マタイの福音書1:18−25要 節:マタイの福音書1:231.マリヤは、ヨセフとどんな関係にありましたか, 。マリヤは、何によって身重になったことが、分かりましたか, 18b,ルカ1, 。「聖霊によって身重になった」ことは、イエス・キリストが、どんな方であることを語ってくれるのでしょうか, ルカ1, 。2.マリヤが身重になったことが分かった時の、ヨセフの心境はどうだったのでしょうか, 。なぜヨセフは、彼女を内密に去らせようと決めたのでしょうか, 19,申22, 。夢の中で、ヨセフに現れた主の使いは、ヨセフをどのように助けてくれましたか, 。3.また、主の使いは、生まれてくる男の子に、どんな名前をつけるようにと、命じましたか。この方は、何をするために、お生まれになったのでしょうか, 21,ルカ2, 。4.このすべての出来事は、どんな預言の言葉が成就するためだったのでしょうか, 22,イザ7, 。「インマヌエル」とは、どんな意味でしょうか, 。「神は私たちとともにおられる。」ことは、私たちにとって、どれだけ大きな恵みなのでしょうか, ヨハ1, 。5.眠りから覚めたヨセフは、どのようにして、その妻を迎え入れましたか, 。ヨセフが、このことを真剣に信じていたことが、何によって示されているのでしょうか, 。私たちが素晴らしい救い主の誕生を迎えるためには、どうしたら良いのか、話してみましょう。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

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14Ruth.ルツの収穫感謝祭

14ruth, ルツの収穫感謝祭, 2014年収穫感謝祭(11月23日)ルツの収穫感謝祭(主から豊かな報いがあるように)御言葉:ルツ記2:1−18要 節:ルツ記2:12「【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」」1.ナオミにはどんな親戚がいましたか, 。モアブの女ルツはナオミに何を申し出ましたか(2a)。ルツがナオミの了解を得て落ち穂を拾い集めた畑はだれの畑でしたか。2.ボアズは刈る者たちの世話をしている若者にどんな質問をしましたか, 。若者の答えを聞いた後、ボアズはルツに何と言いましたか(6, 9)。3.ルツはボアズの親切にどれほどの感謝を示しましたか, 。ボアズはどんな祝福の言葉でルツをねぎらいましたか(11, 12)。ルツはボアズの慰めのことばにどれだけ感動しましたか(13)。今年、神様が私たちに報いてくださったことについて互いに話してみましょう。4.ボアズはルツにどれほどの親切を施しましたか, 。その結果、落ち穂をたくさん拾い集めたルツはしゅうとめナオミにどのように仕えましたか, 。いただいた恵みを分かち合うルツから何を学ぶことができますか。