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14Matthew12M 心から兄弟を赦しなさい

14matthew12m, 心から兄弟を赦しなさい, 2014年マタイの福音書12講 心から兄弟を赦しなさい御言葉:マタイの福音書18:15―35要 節:マタイの福音書18:35「, あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」先週、月曜日に、私はある夫婦の赦しに関するニュースを読んで感動しました。19日にabc放送などのアメリカのメディアが報道した内容が紹介されていました。この夫婦はドナルド・ロレントの両親ですが、殺されたロレントは殺人者になったクリストファー・バザ, の友達でした。2011年12月、ロレントとバザはルームメイトとして酒を飲み、タバコも吸っていました。その時に、銃器事故でロレントが打たれて死亡しました。故意的ではありませんでした。しかし、息子を失った親の悲しみはどんなに大きかったでしょうか。一生癒されない悲しみと痛みがあったはずです。ところが、ロレントの両親はそれを乗り越えて赦したのです。バザが逮捕された後に面会を続けられ、彼が釈放されるように努力を続けました。彼らの献身と愛に感動した裁判官は、ついに仮釈放の寛大な措置を下してくださいました。バザは釈放されるようになりました。ロレントのお父さんが経営する会社で働くことにもなりました。この赦しの愛がアメリカ全地域に伝えられて人々は感動し、感激したのです。赦しによってひとりの青年が新しい人生を始めるようになりました。一生悲しみと恨みを持って生きるしかなかったロレントのご両親も新しい人生を生きるようになりました。今日はイエス様のたとえ話を通して赦しについて学びます。イエス様は私たちが兄弟を最後まで赦し続けなければならないということを教えておられます。ところが、イエス様は真理と恵みに満ちた方です。では、イエス様の真理と正義はどうなるでしょうか。そこで、イエス様はまず正義の厳しさから教えてくださいます。 15, 17節をご覧ください。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。ここで、イエス様は、兄弟が罪を犯した場合にどのように助けるべきかを教えています。 第一段階は個人的に助けることです。私たちの社会生活の中で「ああこの人は明らかに罪を犯した。社会的に罪を犯した」と思われる時があります。すると、親しい関係の人の罪を隠してあげ、人間関係が良くなかった人の罪は暴露しようとします。しかし、まだ、確認されていない場合もあるし、前後の事情をよく知らない状況があるかも知れません。ですから、まず、第一段階として、ひとりでその人のところに行ってその人の罪を責めることが必要です。それで、もしその人がそこで悔い改めたら、その人の名誉を守り、ふたりの信頼関係も深まって行くことでしょう。しかし、もし罪を認めず、社会的に悔い改めるということをしないならどうしますか。 第二段階は二、三人の友達と一緒に助けることです。イエス様は「二、三人友達を連れて行きなさい。」と言われています。どういう友達かと言えば、言うまでもなく、人生の円熟した人、信仰のベテランを連れて行くことです。そうして、三人か、四人でその罪を確認します。そうして、もしその人が自分の罪を認めて、そこで悔い改めたら、彼の名誉を守ることができます。しかし、もしそこでも、悔い改めず、罪を認めないならばどうしますか。 第三段階は教会に告げることです。教会の役員会、あるいは教会の総会に兄弟の罪の問題を持って行くのです。この時も、処罰のためより、罪を犯した兄弟が自分の罪を認めて悔い改めるように助けるためです。しかし、それでも罪を認めて、悔い改めないなら、どうしますか。その時は、彼を異邦人か取税人のように扱うことです。三段階を踏んで祈りと愛を持って訴えても、なお聞き入れないなら、教会の外にいる者として扱いなさいということです。それは大変つらい、お互いの中に傷を残すことになるでしょう。でも、教会に神様の真理と正義がなければなりません。教会はどんな罪を犯してもいい所ではありません。イエス・キリストの十字架の愛によって罪を悔い改めて霊的に成長して行かなければなりません。この世の光として神様の真理と正義を知らせる役割も果たすことは大切です。聖なる国民、王である祭司として生きるために、人としてできることは最善を尽くすのです。そうして正義の上に立つ教会でなければなりません。でも、教会の言うことさえ聞いてくれないならからと言ってその人を助けることをあきらめるべきではありません。人にはできないことでも神様にはできるからです。教会の話を聞いてくれない人であってもその人のために神様の助けを求める必要があります。そこで、イエス様は神様から助けられるために祈りについて教えてくださいます。18‐20節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」イエス様は異邦人の扱いを受けるようになった兄弟でも悔い改めることができるように心を一つにして祈ることを教えておられます。「つないでいる」ということは祈りをやめないでいることでしょう。私たちが祈りをやめない限り、父なる神様の関係がつながっていて、時になると、その祈りをかなえられるのです。私たちが祈り続ける時、神様が助けてくださいます。どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる神様がそれをかなえてくださいます。私たちubf教会ではよく二人ずつ祈ります。それは、このイエス様の教えに基づいていることでしょう。もちろん、1人で静かにささげる祈りにも神様は御耳を傾けてくださいます。ふたりが心を一つにして祈るなら、なおさらでしょう。ふたりが心を合わせて祈るその祈りには力があります。私たち夫婦は長男サムエルが生れる前はふたりで心を一つにしてよく祈りました。神様はその祈りに答えてくださって結婚3年後にサムエルが生れるようにしてくださいました。この御言葉を準備しながら最近はふたりで祈ることを怠けていることに気づかされました。悔い改めて今週からふたりで祈る時間を増やしていきたいと思っています。旧約時代のサムエルはイスラエルを代表する預言者、霊的リーダーでした。それでも、民はサムエルに王を求めました。リーダーがいるのにリーダーを求めたのです。そこで、サムエルが「それは良くない」と説得しても、民は聞いてくれませんでした。ところが、サムエルはそんな民たちのために、とりなしの祈りを続けました。聖書に「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」とあります。サムエルは民を心から赦し、彼らのために祈り続けたのです。すると、サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいました, ?サムエル7, 。神様はイスラエルを敵から守り、彼らに平和を与えてくださったのです。ところが、私たちが人のために祈ろうとしても、赦せない心があると祈り続けることは無理です。答えられる祈りの第一条件は心から赦すことではないかと思います。そこで、イエス様は私たちに「心から兄弟を赦しなさい」と言うメッセージを与えておられます。 21, 22節をご覧ください。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とあります。 当時、パリサイ人たちは、罪を赦す制度を設けて三度までは赦したそうです。日本では「仏の顔も三度」と言われます。野球でも、打者はストライクを3回宣告されると三振になり、アウトになります。ペテロが「三度」ではなく「七度まででしょうか。」と言ったのは、当時のパリサイ人たちよりも寛容な人になっていることを示唆してくれます。周りからは「七度も、ダメよ〜。ダメダメ」と言われたかも知れません。ところが、イエス様は七度くらいではなく、兄弟が罪を犯した場合、七度を七十倍するまでも赦すように教えられました。ここで、人々はさらに驚いたことでしょう。「ダメよ〜ダメダメ。それは無理ですよ。無理!」と言ったではないでしょうか。ではどうやって七度を七十倍するまでも赦すことができるでしょうか。そこで、イエス様は赦しのたとえ話をされました。23〜24節をご覧ください。「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。」とあります。聖書の欄外の注に「1タラントは6, 000デナリに相当する」とあります。また、28節の欄外の注に「一デナリが当時の一日分の労賃に相当する」とあります。今の日本で一日分の労賃を1万円にして計算すると、1タラントが6000万円、1万タラントは6, 000億円になります。一人の労働者が365日の中で休日を除いて300日間働くとするなら、6, 000億円は、一人の人間が20万年間働いて稼ぐお金です。皆は「すごいなあ」と思ったでしょう。「一万タラントも借金する人はあり得ない。」と思ったでしょう。ところが、実際に、清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが王のところに連れて来られました。しかし、彼の事情はどうでしたか。25‐27節をご覧ください。彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じました。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言いました。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。主人はしもべを赦し、彼が一生涯働いても稼げない借金を免除してくれたのです。ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で彼から百デナリ、つまり百万円の借りがある者に出会いました。100デナリは彼が免除してもらった金額に比べれば60万分の1に過ぎません。つまり、60万円を赦してもらったばかりのしもべが、ただ1円貸している仲間に出会いました。ところが、彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言いました。彼の仲間は、ひれ伏して「もう少し待ってくれ、そうしたら返すから。」と言って頼みました。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。彼の仲間たちが見ると、それは酷いことでした。黙っていられませんでした。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。主人の反応がどうですか。32‐34節をご覧ください。そこで主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。お前があんなに、頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったようにお前も仲間をあわれんでやるべきではないか。」と。こうして主人は怒って、借金を全部返済するまで、つまり、未来永久に、彼を牢屋にたたき込みました。それから、イエス様は言われます。結論的に35節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 このイエス様のたとえ話から私たちに与えられるメッセージは何でしょうか。タラントをデナリにするといくらになるか、タラントを円に両替するといくらになるかと言う数学的な問題でもありません。イエス様は私たちに「あなたがたもそれぞれ心から兄弟を赦しなさい。」と言うことです。自分がどれだけ赦されたのか、一生涯働いても返せない赦しを無条件で受けたことを覚えて兄弟を赦しなさいというメッセージなのです。私たちクリスチャンは神様から返すことのできない赦しを受けています。聖書に「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます, ローマ5, 7‐8, 。キリストが死んでくださったことによって返すことのできない私たちの罪は赦されたのです。キリストはアダムの原罪が始まって今まで犯して来た私のすべての罪、これからもあり得るすべての罪のために死んでくださったことにより私たちを赦してくださったのです。しかも、無条件で一方的な恵みによって私たちを赦して下さいました。この無尽蔵の赦しを覚えると、どんな人でも赦せるようになります。事実、人の悪や罪を赦すことは難しいです。私自身も赦せなくて眠れぬ夜を過ごす時もしばしばありました。でも、イエス・キリストの十字架の赦しを経験している恵みのゆえに赦すことができた時に私には大きな益になりました。それは心理学に証明されています。「赦しの技術, forgive, 」という本によると「赦しは、精神的、肉体的な万病の治療薬だ。」と言っています。赦しはうつ病、不安、慢性的な憎しみ、高血圧、心臓病、ガン、そして免疫欠乏症に至るあらゆる病を癒す治療剤である」とあります。また、著者は「私たちが受けた傷に対しては責任がありませんが傷から回復することは自分の次第である」とも言っています。ほんとうに、そうだと思います。私たちが赦さないでいると、敵対心、憎しみ、不安などによって苦しみ、心も体も傷つけられて行きます。しかし、赦すと、心に平安があり、人に対しても自信感を持つようになります。何よりも、私たちがイエス・キリストの赦しを覚えて人を赦すなら神様からの報いと祝福があります。ヨセフは兄弟に奴隷として売られて、本当に大変な苦しみを経験しました。彼の人生に苦難が続きました。でも、彼は兄弟たちに対して憎しみも恨みも持ちませんでした。十数年の時を経た後、彼はエジプトの宰相となりました。ところが、それを知らずに穀物を買いにエジプトにやってきた兄弟たちにヨセフは言いました。「あなた方は私に悪を企んだが、主はこれを善に変えられた」と言ったのです(創世記50:20)。人がした悪を赦す時、その悪が主の御手のうちに祝福に変えられたのです。ここで、注意して置くことの一つは兄弟が罪を悔い改めている場合に赦したことです。この借金があったしもべたちは前の人も、後の人もひれ伏して赦しを求めました, 。私たちが人の罪に対しては赦しますが、自分の罪に対しては謙遜にひれ伏して赦しを求める姿勢が必要だということです。自分の過ちや罪に対しては「ごめんなさい。」と謝る態度が必要なのです。自分の罪に気づかされたら、素直に「ごめんなさい。悪かったです。申し訳ありません。」と言う悔い改めの心も大切です。多くの場合に家でも、職場でも「ごめんなさい。」と言えば赦されます。ところが、年をとればとるほど難しくなる言葉が「ごめんなさい。」だと言われます。実力がつけばつくほど、プロの世界に入れば入るほど、肝腎な時に言えなくなるなって来るのが「ごめんなさい。」です。しかし、あいさつと「ごめんなさい。」は早く言った方が勝ちだということは事実です。私が教会でも職場でも観察してみると生まれつき、なかなか「ごめんなさい」と言えないタイプの人は非常に損をします。「ごめんなさいの一言がない、悔い改めがない、謝罪がない。」と言うことで、問題が大きくなっていくケースを何度も見ました。しかし、すぐに「ごめんなさい」というタイプの人は人間関係ではものすごく得をします。問題があっても、早くごめんなさいと言うと、赦してもらい、かばってもらいます。ですから、私たちは自分の過ちや罪に対しては早く悔い改めて「ごめんなさい。」と言える人にならなければならないと思います。私たちクリスチャンはイエス様の十字架の愛によって赦されていますが、人にも赦される経験を通してさらに、人々を赦すことができるようになります。どうか、自分のことでは早く謝り、人のことに対して七度も赦し、七度の七十倍も赦すことができるクリスチャンとして成長して行きますように祈ります。私たちが赦されると、赦すこともできるようになります。神様からの祝福も受けます。神様は私たちが、自分の罪を認めて悔い改め、謝る時も、人を赦すときに神様はその心を見ていてくださるからです。時になると、私たちもヨセフのように自分が赦した分の悪や罪が祝福に変えられるのを見ることができます。どうか、この事実を覚えて兄弟が罪を犯したとしても心から赦しましょう。自分の息子を殺した人さえも赦して愛するロレントの両親のように、私たちも赦すことができるように祈ります。さらに、自分の過ちや罪に対してはすぐに悔い改めて神様にも、人にも赦される生活ができるように祈ります。

14Genesis10M さあ、目を上げて、見渡し、歩き回りなさい

14genesis10m, さあ、目を上げて、見渡し、歩き回りなさい, 2014年創世記第10講さあ、目を上げて、見渡し、歩き回りなさい。御言葉 創世記13:1〜14:24要, 節 創世記13:14, 17「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。』」 先週、私たちは福岡派遣礼拝を通してアブラムを祝福そのものとして召された神様を学びました。神様が崔ヨセフ宣教師家族も大いに祝福してくださって祝福そのものとして用いてくださるように祈ります。 今日は神様がアブラハムをどのように導いて行かれるかを学ぶことができます。に望んでおられる霊的価値観を学ぶことができます。神様を信じて新しい生活を始めた人々はどのようなことを信じ、どのように行動すべきかを学ぶことができます。それに対するアブラハムの反応を学ぶことができます。具体的に従ったアブラハムを通して愛の実践、感謝の祈りと礼拝を学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して私たちもアブラハムのような価値観を持って生きることができるように祈ります。先週のメッセージで後半部は具体的に取り上げなかったのですが、主がお告げになったとおりに出かけたアブラムは二つの失敗をしました。一つ目は神様の約束の地を離れてしまったことです。二つ目は自分の妻サライを妹だと偽って自分の身の安全を保とうとしたことです。つまり、アブラムがエジプトに下って行ったとき、自分の妻を妹だと偽ったために、エジプトのパロはサライをめとることにしました。ところが、神様はパロの家に疫病をもたらしました。そのことを通してパロはサライがアブラハムの妻であることが分かり、アブラムとサライがエジプトから立ち去るようにしてくれました。しかも、アブラムに与えたものを取り戻しませんでした。パロは美しいサライのために、アブラムに良くしてやったのでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになっていました。ところがパロはそれらを取り戻さずにアブラムの一行を送り出したのです。それで、アブラハムが、エジプトを出て、ネゲブに上った時は非常に富んでいました。結局、アブラムはとても裕福になって戻って来ました。サライとおいのロトを連れて以前神様に祭壇を築いて礼拝をしたベテルの近くに来ました。その所でアブラムは、主の御名によって祈りました。アブラハムはどのような心から祈ったでしょうか。それは感謝にあふれた祈りだったでしょう。彼は二度も失敗しました。自分の身の安全のために妻を妹だったと偽った人間です。ほんとうに大きな失敗をしてしまいました。それにも関わらず、神様は自分と家族の安全を守ってくださいます。それだけではありません。自分が失敗したにも関わらず自分の財産も増やしてくださいました。振り返ってみるとすべてのことを働かせて益としてくださいました。そこで彼は神様に心から感謝して祈ったのです。そして、彼は隣人を愛するようになりました。自分の身の安全のために妻を妹だというのではなく、甥のロトのために財産を分け合う人になりました。それでアブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していました。アブラムの所有物も、パロの所有物も増え続けたので彼らがいっしょに住むのに十分ではなくなりました。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのです。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。金持ちになると喧嘩もしやすくなるものでしょうか。作家の本田健さんがよく取り上げられるテーマがお金と幸せです。彼がこれまでに経験してきたことや、多くの富裕層や大富豪と出会ってきた中で、一般的なお金持ちの不安として次の5つに分類しましたがその一つは家族がケンカしやすくなることです。実際に韓国三星の李健煕会長の家族喧嘩は有名です。25年間も骨肉の争いが続いているのです。アブラハムの家族も財産が増えると争いが起こりました。ところが、アブラハムは一般的な金持ちとは違いました。彼はエジプトでの経験を通して神様の主権的な働きを悟り、信じていたので広い心になっていました。8、9節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」本当に素晴らしいアブラハムの価値観を読み取ることができます。彼は争いがないことを願い、愛を実践しています。良い地の選択権を甥のロトに譲っているのです。ところが、それに対してロトはどうしましたか。10‐11節をご覧ください。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」とあります。ロトは肥沃なヨルダンの定位置を選び取りました。そのためアブラハムは痩せた地域に移動しました。この選択はやがて両者の明暗を分けることになります。当時は知らなかったでしょうが、神様の主権を信じて甥のために良い地を譲ったアブラムが実践した愛は豊かな実をもたらします。しかし、神様の主権的な働きを信頼せず、目先の有益を求めたロトにはやがてすべてを失ってしまいます。19章を見るとソドムとゴモラの滅びの時にすべてを失ってしまうのです。 一方、神様の主権を信じて愛を実践したアブラハムにはどのような神様の約束が与えられましたか。14‐17節をご一緒に読んでみましょう。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」ここで、私たちは三つのことを学ぶことができると思います。一つ目は「目を上げなさい」と言われたことです。現実を見ると、愛するロトはアブラムから離れていきます。これまで行動を共にしてきた、愛する甥を手放すことは、本当に辛かったしょう。アブラムはロトを本当に愛していたからこそ辛くて悲しくなったはずです。おそらく、アブラムは目を下げていたと思われます。彼は落ち込んでいたのです。そんなアブラムに対して神様が、「目を上げなさい」と言われたのです。神様は私たちにも辛くて悲しい現実ばかり見ないで目を上げることを望んでおられます。 私たちもアブラムのように落ち込むことがあるでしょう。自分の愛する人が自分から離れてしまった時は寂しいものです。私は昭和63年10月、金ヨハネ宣教師と一緒に日本に来ました。お互いに離れないでいることは幸せです。でも、同労していた方たちの中では意図もしなかった誤解でこの教会から別れて行きました。その時、とても落ち込んでいました。「もしかしたら私のせいで、こうなってしまったのか?」と後悔しました。でも、目を上げると、神様が慰め、励ましてくださいました。もう自分は福音を語るのに失格者だと落ち込んでいたのですが神様が力づけてくださいました。そのような時にこそ主がそばに立って、「宣教はあなたの働きではない、私の働きだ」と励まされたのです。 離れて行く人との人間関係でほっとしていたけれども、目を上げると神様との関係が深くなって行きました。ですから、ですから、私たちは人と別れる時も、人の関係が切れてしまうときも目を上げて神様を考えなければなりません。すると、神様が慰め、力づけてくださいました。アブラハムがロトを愛したように隣人を愛し続けるべきですが、人間関係は永遠に続くのではありません。失望せざるを得ない時もあるでしょう。だからこそ、目を上げて神様の主権と愛を思うことが必要なのです。今、何かのことで落ち込んでいる方がいるでしょう。神様は言われます。「目を上げなさい。」どうか、私たちひとりひとりがいつもイエス・キリストから目を離さないでいるように祈ります。二つ目は 「見渡しなさい」と言われたかことです。 神様はアブラハムに「あなたのいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」と言われています。彼は今、ベテルとアイの間にいます。そこは肥沃な地ではありません。ロトが見て捨てしまったほどに良くない荒地です。けれども、そこからは約束の地の東西南北を眺めることができます。「北」にはガリラヤ地方があります。「南」にはエシュコルの谷があります。モーセによって遣わされたイスラエルの12人のスパイが、巨大なぶどうの房を取ってきた所です。そして「東」にはヨルダン渓谷がありますし、「西」はシャロン平原と地中海が見えます。そういうところまで見渡しなさいと言われたのです。それから主は、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。」と約束してくださいました。一部ではなく、見渡す全部です。しかも、一年、二年ではなく、永久に与える、ということです。ウマタイ宣教師に与えられた5年ビザでもなく、自分の生涯に限られている永住権でもありません。永遠にアブラムと彼の子孫に与えられるのです。 アブラムはベテルという町を見ていたでしょう。そこで、家畜を飼うには狭く、草の生えていない所を見えないと感じていたでしょう。目の前のことを見ていたのです。しかし、神様は彼に東西南北のすべてを見渡すように命じられました。 しばしば、私たちも目の前にある小さなことばかりを見てしまいます。神様の大きなご計画を見失ってしまうことがあります。○○牧者が福岡に行くと、自分の部屋で礼拝をささげるでしょう。とても狭く感じるかも知れません。でも、神様は私たちが目の前のことばかり見ていることを望みません。目を上げて東西南北を見渡すことを望んでおられるのです。 神様が動かしておられる世界は、まさに全世界です。聖書に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(全世界)を愛された。(ヨハネ3, 16)」とあります。神様の愛は全世界の人々に広がっています。すべての人々に向けられているのです。 私たちが目を上げて神様を思い、まずは日本の47都道府県を見渡しましょう。アジア47か国を見渡しましょう。さらに全世界を見渡すことができるように祈ります。 私たちが、目の前にある問題ばかり見ていると、自分の問題だけが大きく見えてきます。しかし、世の中には、苦しんでいる人々が数多くいます。自分の問題が全く問題にならないほどの、はるかに大きな問題を抱えている人々がたくさんいます。実は霊的に私たちの助けを求めている方たちも数多くいます。○○牧者は「なぜ、もっと早く信じなかったか。」ということを言いました。数多くの人が、キリストの福音を受け入れた後に、「なぜもっと早く伝えてくれなかったのだ。」と訴えています。私たちが自分の問題だけを見るのではなく東西南北を見渡して行きましょう。そうして、福音を知らないで苦しんでいる人たちが見えて来るでしょう。すると、その次はどうするべきでしょうか。三つ目は 「歩き回りなさい」と言われたことです。 神様、アブラハムに「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」ただ見渡すだけではなく、しっかりと歩き回りなさいと命じられています。彼は、まだそれが自分の所有の地になっていないのに、すでに所有の地であるかのようにみなして動きなさいと言われたのです。実際は、彼は死ぬ時にヘブロンで購入した墓地以外は、私有地はいっさいありませんでした。けれども、彼はその約束をはるかに仰ぎ見て、喜んで受け入れたのです。そして、この約束は徐々に実現していきます。400年後に、2, 3百万いたと言われるイスラエルの民が、この地に入ってきて住み着きます。そして約1000年後にダビデとソロモンによってイスラエル王国が確立します。ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれます。そして、イエス・キリストによってあらゆる国の人々に福音が宣べ伝えられるようになりました。イエス・キリストを信じて生まれ変わったクリスチャンがアブラハムに約束された祝福を受けるようになりました。それはアブラハムが歩き回る第一歩から始まりました。アブラハムは神様から言われた約束を聞いた時、目を上げて見渡すだけではありませんでした。約束を喜んで受け入れ、その場でその喜びを歩き回ることによって神様への信頼、その信仰を表しました。私たちにもその姿勢が求められています。歩き回ることです。 まずは神様の約束の御言葉を受け入れて信じることです。ロトのように現実的なことばかり計算して有益になることばかり選択することではありません。目を上げて神様の約束を考えます。それから、約束してくださった地を見渡すことです。そして、自分に与えられた約束、ビジョンが実現されることを信じて心の中で喜んでください。そのようにして神様の御言葉を信じて行くことこそ祝福です。そうすれば、アブラハムが得られた祝福を自分のものにすることができます。それが信仰ですし、信仰的な態度です。それから歩き回る行動をすることです。アブラハムの行動はどのように現われましたか。14章を見ると、エラム王ケダラオメルの連合軍と、ソドムの王たち5人の連合軍との戦争が起きました。ソドム在住のロトたちも戦渦に巻き込まれました。ケダラオメル軍の襲撃を受け、捕虜として連れ去られてしまいした(1, 12)。その知らせを受けたアブラムは、どうしましたか。彼は、たった318人の従者を引き連れてケダラオメル軍を打ち破りました。そして、ロトとその家族はもちろん、ソドム連合軍の失った財産も取り返しました。この勝利は周囲を驚かせました。まさにソドムの王たちからすればアブラムは英雄です。ソドムの王は大いに歓迎しました。サレムの王メルキゼデクもアブラムの帰還を出迎えてくれました。彼は当時の霊的指導者として尊敬を受けていました。人々からは「いと高き神の祭司」と仰がれる崇高な王でした(14, 18)。そのメルキゼデクがアブラムに向かって「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。20, あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」と祝福しました。そこでアブラムはすべての物の十分の一を彼に与えました。アブラムはメルキゼデクと出会うことによって、さらに信仰の目を開くことができました。この出会いがなければ、たった318人で勝利したことで傲慢になり、自分の栄光にしてしまったかも知れません。だから、アブラムは10分の1の献げ物をメルキゼデクに贈り、神様に栄光を返しました。ふたりの王がアブラムを出迎えたわけです。神である主に栄光を向けようとするメルキゼデクと、何やら人間くさいはかりごとがプンプンと匂ってくるソドムの王のふたりです。ソドムの王はアブラムに提案しました。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」(21)。言いました。人質はソドムに返し、財産はアブラムに褒美として与えるというものでした。なかなか良い条件じゃないですか。しかし、アブラムは受け取りませんでした。「「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。 24, ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」アブラハムはソドム王の提案に邪悪を感じ取ったのです。メルキゼデクに出会っていなかったなら、ソドム王の提案にひそむ闇を見抜くことができなかったでしょう。本物を見ているからこそ、邪悪なものを見抜けるのです。主に栄光を帰するために10分の1を献げると共に、邪悪な関係からは富を得ないということを通して、アブラムは「所有」について神様の原則を学びました。 ここでアブラハムは神様に選ばれた者らしい価値観を持って生きていたことが分かります。彼の行動は神様に十分の一をささげて礼拝を人には卑屈なものにならないことでした。結局、アブラハムはほんとうに霊的な価値観を持って生きていたことが分かります。最後までロトを愛しています。それは口先や言葉だけではなく、命をかけて戦うほど行う愛でした。また感謝の祈りをささげ、礼拝する信仰を持っていました。そして、神様から与えられた御言葉を信じて従う生活をしました。私たちがそういう信仰を持って生きるように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

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14Ruth.ルツの収穫感謝祭

14ruth, ルツの収穫感謝祭, 2014年収穫感謝祭(11月23日)ルツの収穫感謝祭(主から豊かな報いがあるように)御言葉:ルツ記2:1−18要 節:ルツ記2:12「【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」」1.ナオミにはどんな親戚がいましたか, 。モアブの女ルツはナオミに何を申し出ましたか(2a)。ルツがナオミの了解を得て落ち穂を拾い集めた畑はだれの畑でしたか。2.ボアズは刈る者たちの世話をしている若者にどんな質問をしましたか, 。若者の答えを聞いた後、ボアズはルツに何と言いましたか(6, 9)。3.ルツはボアズの親切にどれほどの感謝を示しましたか, 。ボアズはどんな祝福の言葉でルツをねぎらいましたか(11, 12)。ルツはボアズの慰めのことばにどれだけ感動しましたか(13)。今年、神様が私たちに報いてくださったことについて互いに話してみましょう。4.ボアズはルツにどれほどの親切を施しましたか, 。その結果、落ち穂をたくさん拾い集めたルツはしゅうとめナオミにどのように仕えましたか, 。いただいた恵みを分かち合うルツから何を学ぶことができますか。

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis14M 約束されたとおりに行われた神様 

14genesis14m 約束されたとおりに行われた神様 , 2014年創世記第14講                               約束されたとおりに行われた神様御言葉:創世記20, 1−21, 34要, 節:創世記21, 1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」 先週、私は福岡ubf開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。2, 13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12, 20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。ローマ8章31, 37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21章1, 2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3, 5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました, 。以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。

14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

14genesis15m, 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム, 2014年創世記第15講一人子さえ惜しまずささげたアブラハム御言葉:創世記22, 23章要, 節:創世記22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 先週、行われたイースター修養会を大きく祝福してくださった神様に心から感謝します。何よりも私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死なれ、葬られましたが死者の中からよみがえられた私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。 今日からは再び創世記に戻ります。先々週までアブラハムの人生を見て来ました。彼は神様から「あなたは祝福となる」という約束をいただきました。でも彼は「祝福の人生」だとは言えないような歳月を過ごしました。決して平坦ではありませんでした。むしろ試練の連続だったとも言えます。75歳にして自分の生まれ故郷を離れて行きました。飢饉に直面する時もありました。愛する人ロトとの別れがあり、ロトのために戦争に巻き込まれることもありました。女奴隷ハガルのことで夫婦の危機に見舞われたこともありました。特に神様から約束された子どもが25年間も生まれませんでした。ほんとうに山あり谷ありの人生の中でさまざまな試練が彼を襲っていたのです。漸く約束の子イサクが生まれたのは、アブラハム100歳の時でした。その後も先に生まれていたイシュマエルの問題がありました。アブラハムの人生に試練が続いていたのです。ところが、またも神様はアブラハムを試練に会わせられました。この時間、アブラハムが経験した試練を通して神様への愛と信仰を学びたいと思います。また、私たちのために備えてくださる神様を学びたいと思います。22章1節をご一緒に読んでみましょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。」とあります。「これらの出来事」とは21章に記された出来事です。神様の約束の通りに、イサクが生まれました。それはアブラハム夫婦にとって大きな喜びでした。アブラハム夫婦の不信仰によって女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの問題も神様の助けによって解決されました。それで、アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在しました, 。その間にイサクはすくすくと成長したことでしょう。6節を見るとアブラハムはイサクに全焼のいけにえのためのたきぎを負わせています。それほど大きくなっていることでしょう。自分のことを思いだしてみると、父からたきぎ、お米、お魚などの荷物を負わせられたのは中学生の時でした。その頃、私が父と一緒に歩いていると、周りから「もう大きくなったね。お父さん。いいね。」とよく言われました。すると、お父さんは幸せそうに笑っていました。イサクも中学生の年齢になっていてアブラハムはイサクの成長を喜び、幸せを感じていたと思われます。ところが神様はアブラハムを試練に会わせられたのです。2節をご覧ください。「神は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と言うのが神様からの命令です。単に「子どもを連れて山に行って祈りなさい」とか、「子どもを厳しくしつけなさい」というような命令ではありません。「子どもを連れて行って殺せ」という命令です。しかも全焼のいけにえとして殺すことです。「全焼のいけにえ」とは言葉の通りに全部焼いて煙にしてささげるものです。人が牛や羊を全焼のいけにえとしてささげるときは、まず動物の頭の上に手を置いて殺します。その後その血を祭壇の周りに注ぎかけます。そして、その動物の皮をはぎ、各部分に切り分け、内臓と足は水で洗います。それから全体が全部灰と煙になるまで徹底的に焼き尽くすのです。ところが神様はアブラハムにそのようなささげ方でアブラハムを神様にささげるように命じられたのです。親にとってこれほど残酷な、非人間的な行動があるでしょうか。全く常識では考えられないことです。アブラハムにとってもこれほど残酷な試練はないでしょう。まったく理解に苦しむところです。では、なぜ神様はこんな残酷なことをお命じになったのでしょうか。何のためにアブラハムをこんなに酷い試練に会わせられるのでしょうか。私は本文の御言葉を黙想しているうちに二つのことを考えられました。一つ目はアブラハムに神様を第一に愛することを確かめ、その愛を持たせるためです。神様を第一に愛しているかどうかを試してその愛を持つように訓練するのです。だから試練です。神様は、イサクという子が「あなたの愛している子」であることをご承知でした。イサクはアブラハムが100歳にしてやっと神様からいただいた子どもでした。しかも、彼の正妻サラとの間に生まれた唯一の子どもです。目の中に入れても痛くないほど愛していたのは言うまでもありません。さらに加えて、イサクの誕生は神様の約束の成就であったし、奇跡的な出来事でした。アブラハムはイサク誕生を通して特別な経験をしたのでいつでもどこでもイサクは神様からの素晴らしい贈り物だと証することができたでしょう。そのイサクをささげよ、というのが神様の命令なのです。ここで、神様はアブラハムに神様が与えてくださったイサクを第一に愛するか。それともイサクを下さった神様を第一に愛するかを確かめておられるのです。つまり、「アブラハムよ。おまえはわたしからの贈り物にいつまでも執着するのか。それとも贈り物の贈り主なるわたしにとどまるのか」という問いかけです。神様は私たちに対しても、「あなたは何を第一に愛しているか」と問いかける時があるでしょう。私たちにも神様から与えていただいたものがあります。それはそれで大変尊いものです。家族も、財産も、素晴らしい信仰的な経験も、一つ一つが神様からの贈り物です。それらを尊く思って感謝し、愛するべきでしょう。しかし、そのような賜物や信仰の体験は私たちが第一に愛する対象ではありません。私たちが第一に愛するべき対象は創造主であられる神様です。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を第一に愛しなければなりません。神様は聖書全体を通して神様がご自身が私たち人間をどんなに愛しておられるかを教え、私たちが神様を第一に愛することを求めておられます。ですから、この時間も神様は私たちに仰せられます。「アブラハムよ。ダニエルよ。マリアよ。あなたは何を第一に愛しているのですか。」二つ目は神様を恐れる信仰を確かめ、その信仰を持たせるためです。神様を恐れる信仰を試してその信仰を持つように訓練されたのです。神様はイサクがひとり子であることをも承知の上でアブラハムに命じられました。「ひとり子」とはどういう意味でしょうか。言うまでもなく「一人しかいない子」という意味です。アブラハムの場合、それ以上の意味があります。アブラハムには二人の子がおりました。イサクとイシュマエルです。そのイシュマエルは「奴隷の子があなたの相続人となってはならない」ということで追い出されました。約束の子イサク一人だけが残されたわけです。神様は「そのイサクをささげなさい」と命じられたのです。すなわち「あなたの子孫は海辺の砂のように、空の星のように数多くなるであろう。あなたから出る子孫が多くの国民となる」という約束を担うたったひとりの子、そのイサクをささげなさいというのが神様の命令だったのです。これは神様を恐れる信仰がなければ従えません。神様を恐れることができず、少しでも疑いがあれば「これこそ残酷だ、裏切りだ、非人間的だ」と騒ぎ立てるでしょう。神様はアブラハムがほんとうに神様を恐れているかを確かめ、その信仰を確実に持たせようとされたのです。それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。3節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクといっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。アブラハムは信じられないほど淡々と行動しています。何も大騒ぎしていません。黙々と、すべきことをしている姿が浮かびます。翌朝早くから行動するアブラハムから「さすがにアブラハムだなあ」とも思われます。羊や牛などを全部焼いて煙にするほどのたきぎだからかなりの量だったでしょう。それを割ったことを考えると、額から流れる汗をあごからポタポタ落としていたことでしょう。それでも何もしゃべらず、神様から言われた場所に着くまで三日も歩き続きました。三日目にアブラハムが目を上げると、神様がお告げになったその場所がはるかかなたに見えました。それでアブラハムは若い者たちにろばといっしょに残るようにしました。そして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせました。息子自身にたきぎを背負わせるときのアブラハムの心はどうだったでしょうか。それも痛々しい限りです。アブラハムは火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。この姿を見ると、アブラハムは「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」という命令を、残酷だ、非人間的だという感情的なレベルでとらえていません。アブラハムはそれを「神様への礼拝」として受け止めていました。だから、彼は若い者たちに「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところの戻って来る」と言ったのです。モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」この時、父親のアブラハムは何と答えたらいいでしょうか。なかなか悲しみを押さえることができなかったでしょう。泣き出しそうになったのではないでしょう。しかし、彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。何と素晴らしい信仰の答えでしょうか。神様が備えてくださると信じ切っています。それに対してイサクもイサクです。「それはどういう意味ですか。どうしてそれが分かるんですか。」とも言える場面です。しかし彼は何も言っていません。父親を信頼し切っています。親子が互いに信頼し切っています。素晴らしい親子関係です。9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。その上にたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。たきぎを負わせられるほどの力もあったからこそ反抗もできたのです。しかし、イサクは反発せず、親の指示、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは父なる神様に対するイエス様の姿勢を思い浮かばせてくれます。イサクの従順はやがて神の御子イエス・キリストが神様の小羊として黙々と神様の御心に従われたことを象徴しているのです。10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺していると思います。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」。刀を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているアブラハムに対して神様は、「ストップ!」とは言われませんでした。「アブラハム、アブラハム」と二度名前を呼ばれました。ここで神様はアブラハムの名を2回呼んでいます。今までも神様がアブラハムの名を呼ばれることは何度もありました。でも2回も呼んだことはありませんでした。今回は「アブラハム、アブラハム」と二回も呼んでいます。それほど事態が緊迫していたことでしょう。その緊迫感が伝わって来ます。主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。しかし、神様を第一に愛し、神様を恐れるアブラハムの信仰を確認した時には二度も彼の名前を呼びました。12節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。神様はアブラハムがまさしくひとり子イサクをささげたと見なしてくださったのです。 13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。アブラハムは今回のことを通して「主は常に私たちを見守り、最善のものを備えていてくださる」ということを経験し、確信したでしょう。ほんとうに、アブラハムのように神様を第一に愛し、神様を恐れる人には必ず神様が最善のものを備えていてくださいます。神様はアブラハムが「アドナイ・イルエ」という真理を体験し、それがもととなって「主の山に備えあり」という言葉が人々に覚えられるようになるために、この試練を与えられたということにもなるわけです。「主の山に備えあり」という真理はそれほど大事なのでしょうか。私自身も経験して来た真理です。皆さんもご存知のように私の長男は中学校まで韓国学校で勉強をしたので都立の戸山高校は遠く感じられました。ところが、私は説明会の時に神様から「主の山に備えあり、戸山にも備えあり」と言うことが示されて確信し、挑戦することができました。その結果長男が卒業することだけではなく次男も戸山高に通っています。「アドナイ・イルエ」は今の真理なのです。 16, 18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 ここで、私たちは神様の約束がアブラハムの従順を通して成就して行ったことを学ぶことができます。アブラハムが神様を愛し、恐れて神様の御声に聞き従った時に主は彼に祝福を注いでくださいました。神様はアブラハムとの約束にアブラハムの神様への愛と信仰による従順も求めておられたのです。神様はアブラハムの愛と神様を恐れる信仰を見てアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。 23章にはサラの死に関する記事です。そこにも神様の備えがありました。それでアブラハムは自分の妻サラをカナンの地にある、マクペラの畑地のほら穴に葬ることができたのです。以上を通して私たちは神様への愛と信仰、神様の備えを学びました。どうか、日々の生活の中で神様を第一に愛し、神様を恐れる生活ができるように祈ります。神様は私たちのためにベストを備えておられることを信じて今週も力強く信仰によって生きるように祈ります。

14Matthew10M 正しい者たちは、太陽のように輝きます

14matthew10m, 正しい者たちは、太陽のように輝きます, 2014年マタイの福音書第10講 正しい者たちは、太陽のように輝きます御言葉:マタイの福音書13:24, 52要 節:マタイの福音書13:43「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」先週、私たちは13章に記されている七つのたとえ話の中で種まきのたとえを学びました。良い地に蒔かれた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。今日も、イエス様のたとえ話を学びます。良い麦と毒麦、からし種とパン種、畑の宝と真珠、地引き綱のたとえについて学びます。ここで、私たちは神の国の性格、私たちに対する神様の御心を学ぶことができます。イエス・キリストを信じて救われている私たちは神様にとって素晴らしい値打ちのある真珠のように尊い存在です。ですから、私たちがからしのように成長し、パン種のように膨張して行くようになります。そして、太陽のように輝く人生を生きるようになります。神様の御言葉が私たちのうちに働いてくださるからです。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます, ヘブル, 。どうか、本文の御言葉を深く悟り、受け入れることによって日々御言葉の力を体験し、成長して輝く人生を生きるように祈ります。24, 30節を見ると、自分の畑に良い種を蒔きましたが人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行ったことが記されてあります。皆さんにとって人の畑にわざと毒麦を蒔くというのは納得できないかも知れません。一般的にはそうしないでしょう。しかし、彼の敵が夜の間にこっそりやって来て、毒麦を蒔いて行くことはあり得ることです。インドにおいて最も恐い言葉は、「お前の田んぼに、お前の畑に、悪い種を夜の間に蒔いてやる。」だそうです。農家において毒麦を蒔くことは敵が最大の憎しみと恨みを晴らすやり方なのです。適である相手が一生懸命種を蒔いて育てようとしている畑に悪い種を持って来て、夜の間に憎しみを込めて、パーッパーッと蒔いてしまうのです。すると、一週間たち、一か月たち、そのうち芽を出して来るわけです。やがて実ったとき、毒麦も現われるので分かります。それで主人のしもべたちはそれを抜き集めようとします。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」と言いました。一般的に農夫は毒麦が見えるとすぐに抜いてしまうと思います。私は子どもの時にお米の生産地で育ちましたが、稲とひえのことを話してみたいと思います。小学校の高学年、中学生の時の夏休みには田んぼに稲と一緒に出て来るひえを抜く仕事をしたことがあります。私は田んぼに出てひえを抜くのがつらくてよくサボったのですが、ひえと言うのは稲とそっくりで区別が難しいものでした。それでひえだけではなく、稲も抜いてしまいました。ところが熟練したプロが見ると、稲とひえとははっきり区別がつきます。だから、農家では少しでも早く、稲の中からそのひえを抜いてしまいます。ですから、イエス様が弟子たちに良い麦と毒麦に対して「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われた時はびっくりしたのです。「え、なんでイエス様はそんなことを言うのだろう。」と思ったことでしょう。そこで、イエス様はたとえの意味を教えてくださいました。37−43節にあります。「良い種をまく者」は人の子です。畑はこの世界、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたち、毒麦を蒔いた敵は悪魔、収穫とは、この世の終わりのことです。イエス・キリストは良い種である御国の子どもたちを保護し、守るために、毒麦である悪い者の子どもたちを終わりの日の審判まで待っておられることを教えてくださいました。ここに、イエス・キリストの御心がよく表われています。イエス様は寛容な心で、ギリギリまで裁きを遅らせくださいます。悔い改めを待つキリストのお心です。最後の最後待ってくださる愛です。これこそ、私たちに対する神様のお心であり、言い尽くせない愛でしょう。だからと言って、私たちがいつまでも神様に甘えていていいということはでありません。自分の中に芽生えてくる毒麦は、一日も早く抜き取る必要があります。速やかな、裁きが必要なのは、自分の中に芽生えてくる毒麦です。私たちがちょっと油断している間に、あるいは、この世の人に合わせている間に、悪い種が蒔かれている可能性があります。また、「信仰的に、また、霊的に、少し眠っていたかな」と思うような時に、巧みに悪魔が私たちの内側に様々な「悪い種」を蒔いている可能性があります。それを最後まで、放っておいてはいけません。自分に対しては厳しくしなければなりません。悔い改める生活を通して毒麦を取り除く必要があるのです。やがて終わりの日にさばかれるからです。しかし、他人に対しては寛容でなければなりません。私たちは、他人をさばくということにおいては「神の裁き」にそれをゆだねる必要があります。イエス様のたとえで、主人のしもべたちはそれを抜き集めようとしました。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。』と言われました。他人に対しては極めて寛容な主人の心がよく現われています。私たちは生活の中で一度悪い人だと思うと、その人を受け入れることがなかなか難しくなるでしょう。速やかにさばかれることを望みます。あの人さえいなければいいのにと思われる人がいるかも知れません。しかし、さばきは神様にゆだねましょう。自分の敵のように思えるほど悪く思われる人であっても切り捨ててしまうのではなく、神様にゆだねるのです。他人に対しては限りなく寛大な心を持って仕えて行くのです。家族、隣人、友人、職場の同僚や上司などの心のうちに芽生えてくる毒麦に対しては慎重でなければならないのです。自分の毒麦には厳しく、人にはやさしくしていくのです。罪深い私を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリストの愛が無駄にならないように自分には厳しくしていきます。また、自分の注がれる神様の限りない愛のゆえに、人々にはやさしくし、毒麦のすべてのさばきは神様にゆだねて生きるのです。そうすると、まずは自分自身が成長します。自分が属している教会も、日々成長して行きます。やがてこの世に大きな影響力を及ぼすようになります。その時、私たちは私たちの父なる神様の御国で太陽のように輝く者になります。43節をご一緒に読んでみましょう。「その時、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」「彼ら父の御国」とは、明確に天国での話です。そこにあって彼らは太陽のように輝きます。栄光の体をいただいた信者はますます神様の栄光を現わし続けて行くわけです。そういった祝福に与るのだという話がここにされています。そして「耳のある者は聞きなさい。」とは大切なメッセージだから聞きなさいと言うことです。ではどうやって私たちは世の中に毒麦が芽生えて成長しているにも関わらず、霊的に成長し、影響力を及ぼすことができるでしょうか。そして、終わりの日に、私たちの父なる神の御国で太陽のように輝く者になれるでしょうか。第一に、天の御国は、からし種のようなものだからです。からし種を取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。このからし種は一グラムを量って調べてみると、百粒ぐらい入っているそうです。指で一粒をつかめないほどに小さいものなのです。そんな小さな種が畑に蒔かれると、やがて三メートル、四メートル、この天井の高さよりも大きく生長して、空の鳥がやって来て巣を作って、卵を生んでヒナを育てるほどになるということなのです。それほどに生長して行くのです。第二に、天の御国は、パン種のようなものだからです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」とあります。三サトンは、約36リットルです。1, 5リットルのファミリーサイズのペットボトルにして24本の分量です。一般の家庭で日常のパンを焼く分量の20倍ほどです。しかも、パン種は粉を変質させ、しなやかで芳しい香りのパンを作り上げます。このように、天の御国は膨張し、拡張されていきます。キリストの芳しい香りを放ち、良い影響を及ぼしていきます。しかも、キリストにある命のゆえに人々は新しい創造を実現していくのです。イエス様はこのたとえ話を12弟子を中心にする小さなグループに向けて語られました。それにはどんな意味があるでしょうか。私が神学校で勉強している時に教えて下さって岸義弘先生の解説を紹介します。「この世には毒麦も芽生えて来ます。しかし、これが毒麦だと、あなたがたの間で厳しいさばき合いをして分裂を起こしてはなりません。毒麦に手をつけてはいけません。放って置きなさい。そんなことで私の神の国は滅んでしまうようなものではないのだ。教会と言うものは、どんな毒麦があろうが、反対迫害の勢力が来ようが、からし種一粒のようなものです。キリストのいのちがあるから必ず生長し、その枝を張って、大きい木のようになり、世界の国々がその陰に巣を作って、その祝福にあずかる時が来るのだ。」と言うことです。さらに、反対があっても、迫害があっても、ふくらんで来て最後は実においしいパンが焼き上がって来ます。世界中のキリストの香りを放つようになります。だから、今は小さなグループであっても、私の教会がからし種のように小さく思われても希望を失わないで忍耐を失わないで、終わりの日まで信じて進んで来なさい。」と言うことです。そうです。私はクリスチャンの人生に対して小さく出発しても成長し、膨張し、輝くようになると思っています。この世に毒麦も芽生えているから、混乱もあり、試練もありますが最後は勝利者になります。圧倒的な勝利者、太陽のように輝く勝利者になるのです。ですから、偶然のように、イエス・キリストに出会った人も、必死に捜し求めてキリストに出会った人も、神の国の価値が分かると、すべてを投資して神の国のために働きます。そこで、イエス様はたとえをとして最高の価値についても教えてくださいます。44−46節をご覧ください。イエス様は天の御国は、畑に隠された宝のようなものだと言われました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。彼は何も努力しなかったのに、自分の畑に隠された宝を見つけた時、その価値が分かったので自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買うのです。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。この人の場合は賢い人で最も価値あるものを捜し求めていました。だからこそ、良い真珠を見つけた時の喜びも大きかったでしょう。それほど価値があるからです。偶然に宝を見つけた人でも、必死に努力して真珠を見つかった人でも最高の価値が分かった時は自分のものを犠牲にしました。弟子たちはイエス・キリストに出会ってから大切な家族も、舟も、網も、商売道具も、税理事務所も放棄してキリストに従いました。彼らは最初からキリストの価値が分かっていたのかは分かりません。もちろん、彼らに聖霊の働きかけがあったでしょう。しかし、確かなことは、彼らが天の御国の民として生活しながら天の御国、キリストに最高価値があることが分かったことです。キリストを信じ、キリストに従うことが出来たのは、本当に大きな恵み、一方的な恵みだったのです。特にこの福音書の記録者マタイもそのような経験をしました。キリストの弟子として御言葉を悟る喜び、癒される力と愛を経験しながらやはりイエス様を信じて良かった、何もかも捨ててイエス様に従って良かったと思ったのです。ですから、12弟子のひとりであるマタイもすべての人々がイエス様のたとえ話に示された天の御国をよく悟り、信じてほしいと思いました。天の御国は成長し、拡張されていくこと、彼らの父の御国では太陽のように輝くことを信じてほしいと切実に願ったのです。そこで、彼はたとえの引き続き、イエス様が信仰を促されたことを記しています。ubf教会も1961年、今から52年前はからし種のように小さな群れでした。その小さな群れにもイエス・キリストのいのち、いのちの御言葉があったから成長し膨張して来ました。今は世界の98か国に影響するほどに成長し、影響を及ぼしているのです。日本ubf教会も26年前四畳半の部屋で出発する時はからし種ほどに小さかったのです。今は長崎から仙台まで、世界宣教においてもpng、アメリカ、タイまでに広がりました。これから、さらに成長し続け、日本とアジア、世界に広がって行きます。私たちの期待を超えて神様が働いてくださるからです。しかし、毒麦、悪い者、不信仰の者であり続けると、どうなりますか。神様のさばきがあります。47, 50節には地引き網のたとえを通して御使いたちによるさばきのことが記されてあります。このたとえが教えていることも明白です。私の父は農村でも夜は魚をとる漁をしていましたので、このたとえもよく理解できます。地引き網で魚を捕った時に、いろいろな魚が網の中に入っています。そこで漁師は魚を見て、良いものと悪いものに分ける、その光景です。恐らく多くの人々がガリラヤ湖で見ていたのでしょう。その彼らがよく知っていることを用いてイエス様は御使いによるさばきがあるという大切なメッセージを与えられました。「正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。」と書いてあります。ちょうどよい麦と毒麦とが分けられるように、この時人々が悪い者と正しい者の二つに分けられるのです。悪い者とは、主を、またそのとうとい救いを拒み続けた未信者の話です。神様の救いがあるということを聞いていながらその救いを拒んだ者たちです。彼らには永遠のさばき、地獄が望みどおり与えられます。望んでいるように与えられます。正しい者とはクリスチャンたちです。彼らは約束どおりに永遠のいのちが与えられます。彼らの父の御国で永遠に輝くのようになります。どうか、その日を待ち望みながら私のうちに蒔かれたいのちの御言葉を大切にし、御言葉に従う生活ができるように祈ります。何事も毒麦の活動のせいにしないで、彼らのことをさばくこともなく、良い麦として神様に守られ、愛されて行きますように祈ります。どんなに苦しい現実があっても、希望を失うことなく、自分を救ってくださった神様の愛と恵みに感謝しながら素晴らしい宝、最高価値ある神の国の救いを宣べ伝えて行くことができるように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。