聖書別日ごとの糧   >>   エゼキエル書[2024]

2024年 08月 02日 (金)

エゼキエル書2:1-3:3(7)
聞く聞かないに関わりなく

神様は、捕囚の民に神のことばを伝える預言者としてエゼキエルを召されました。イスラエルの民は偶像崇拝や不従順、そして最後まで悔い改めない頑なな心のゆえに悲惨な捕囚の身に転落していました。それでもいまだに自分たちの罪に気づかず頑固な状態にありました。神様は彼らを、わたしに反抗する国民、厚かましくて、かたくなな者だと言われます。そのような、伝えても伝えても聞いてくれそうもない民に、なぜ神様はエゼキエルを遣わされるのでしょうか。それは、彼らが聞く聞かない関係なく、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならないからです(5)。神様が彼らを愛し、バビロンから何としてでも彼らを救い出すために預言者を遣わされたことを知ってもらうためです。また後になって「私は神のことばを聞いてない!」という言い訳をさせないためです。

エゼキエルは神のことばを伝える前に、神様が下さるもの(一つの巻き物)を食べなければなりません(8-9)。その巻き物には、嘆きと、うめきと、悲痛が書いてありました。これらは、悔い改めないイスラエルの民に臨まれる神のさばきのことばです。神のさばきを伝える事は辛く、苦しいことのように見えます。しかし、エゼキエルが神様から与えられたこの巻き物を食べると、蜜のように甘かったのです。神のさばきのことばには、救いのための神様の愛が込められています。さばきのことばを深く受け入れるなら、蜜のように甘くなるのです。神様のしもべたちは先に神のことばをしっかり食べなければなりません。そして神のことばで腹を満たし、苦いことばでも甘い味を味わう体験をしてから伝えるべきです。今日でも、多くの人々が神のことばを聞こうとしません。神のことばを伝える私たちも嫌っています。しかし、彼らが自分たちのうちに預言者がいるということを知らなければならないので、神様は私たちを遣わされるのです。



祈り:主よ、私が神様のみことばを日々受け取って食べ、大胆にみことばを伝えることができるようにお助け下さい。

一言:聞いても、聞かなくても


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