聖書別日ごとの糧   >>   エゼキエル書[2024]

2024年 08月 14日 (水)

エゼキエル書 14:1-23(4)
躓かせる石のような罪

イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとに来た時に、エゼキエルに主が言われたことばです。彼らはつまずきの石である偶像崇拝(コロ3:5)に満ちた心を持って、主に聞きに出てきたのです。このような者たちにも主は答えて立ち返らせようとします。「立ち返れ…偶像から身を翻せ、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。」さもなければ、主はそのような者から顔をそむけ、神の民のうちから断ち滅ぼします。神様は人の心の中と生き方をご覧になります。心から主に立ち返っていない者がいくら敬虔なふりをし、祈っても主は騙されません。このような偽善者や偽りの預言者たちを主が追い出す理由は、イスラエルが再び神様を離れ、そむきの罪によって自分自身を汚さないようにするためです。

神様が裁かれるとき、裁かれる責任は各自が負います。例えば、国が、不信に不信を重ねて神様に罪を犯し、そのため神様がその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、ききんを送り、人間や獣をそこから絶ち滅ぼす時に、たとえ、そこに、ノアとダニエルとヨブのような正しい人達がいても、彼らの義によってその国の人々が救い出されることはありません。この三人は自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけです。このような原則は、猛々しい獣や剣、疫病による裁きのときも同じです。自分の義によって自分の子供を救うこともできません。このような四つの重い罰、すなわち、剣と飢饉と猛々しい獣、そして疫病でエルサレムが裁かれる時、わずかな者がのがれ、息子や娘を連れ出しますが(12:16)、そんな彼らの行いを見て、神様の災いがかえって良いことだと考えるようになります。エルサレムの滅亡は、理由無く起こった事ではなく、彼らの罪のゆえでした。罪の躓きの石、つまり罪を犯させる罠のような偶像を悔い改めなければ神様のさばきを免れません。信仰の共同体の中にいるから救われるのではなく、自分に個人信仰があってこそ救われるのです。



祈り:私の心をご覧になる主よ、私の内から偶像を取り除き、あなたとともに歩めるように助けてください。

一言:心から立ち返れ


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