聖書別日ごとの糧   >>   ダニエル書[2025]

2025年 02月 10日 (月)

ダニエル書 3:1-18(17,18)
たとえそうでなくても

 「誰がいのちの主権者なのか」について、二つの価値観がぶつかります。一つ目は、王の手にかかっているという考えです。「どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか(15)」。周囲のすべての国を征服したネブカドネツァル王は、ダニエルの友人たちに、自分が造った金の像を拝まないなら、ただちに火の燃える炉の中に投げ込むと脅かしました。王の手にその三人の友人たちのいのちがかかっているかのように見えます。ドラの平野に召集されたすべての高官たちはそう思っていたので、金の像を拝みました。このように王がいのちの主権者であると思うなら、主である神様を信じる信仰を保つことが難しくなります。一生、人を恐れ、人の目を気にしながら生きるしかありません。

 二つ目の考えは、主の手にかかっているという考えです。ドラの平野に召集された人々の中で、三人の友人たちだけはそのように考えました。「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。(17)」三人の友人たちは神様を信じ、最後まで金の像を拝みませんでした。彼らは主である神様を信じる信仰を選び、守りました。彼らが金の像を拝まなかったのは、神様が救ってくださると信じたからですが、たとえそうでなくても、偶像の神々を拝まないことが主の御前で正しいことだと考えたからでした。彼らは結果に拘らず、自分の信仰に基づいた考えに従って、義と真理に従って生きました。

神様は、私たちの期待や願う通りになさらないこともあります。自分が良いと思うことが、主がご覧になるとき、そうではないこともあります。しかし、状況によって揺らぐのではなく、神様の御旨とご計画を信じる人こそ、まことの信仰の人です。



祈り:いのちの主権者であられる神様を信じます。どんな状況においても信仰を保つことができるように助けてください。

一言:たとえそうでなくても



2025年 02月 11日 (火)

ダニエル書3:19-30(29)
このように救い出すことのできる神は、他にいない

 楽器の音に合わせて一斉にバビロンの高官たちは金の像を拝みました。しかし、ダニエルの三人の友人たちだけは、主である神様への信仰を守るために、金の像を拝みませんでした。これは、当時の神の民たちが置かれた状況の縮小図でした。巨大かつ強力な不信の世界が、弱小の神の民を囲い込んでいます。信仰が不信に飲み込まれそうな状況です。果たして、この世の主権は誰の手にあるのでしょうか。王の手にあるように見えます。

怒りに満ちたネブカドネツァル王は炉を普通より七倍熱くするように命じ、三人の友人たちを縛って、火の燃える炉に投げ込みました。彼はこう思っていたでしょう。「人のいのちはこの私の手が握っていることを見せつけよう。」しかし、ダニエルの友人たちは、何の害も受けることなく、火の中を歩いていました。火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いもしませんでした。神様が御使いを送り出し、彼らを守ってくださったのです。ネブカドネツァル王はバビロンの王であり、神のような存在でした。彼の言うとおりにならないことは一つもないほど、絶対的な権力を持っていました。しかし、主である神様は、バビロンのすべての高官たちの前で、主こそ、まことの神であることを明らかにされました。巨大な不信の世界で、信仰が勝利し、神様がほめたたえられました。

神様こそ、世のまことの主権者であり、いのちの主です。この神様はご自分を信頼し、他の神々を拝まない信仰の人々を救ってくださいます。ですから、今は巨大な不信の世界に神の民たちが飲み込まれそうであっても、主は必ず彼らを救い出し、勝利を与えてくださいます。これは苦難の中にいる神の民たちに大きな慰めとなり、望みとなります。どんなに弱くても、大胆に不信の世界に挑む力と勇気を与えてくれます。私たちも主だけを拝み、主だけに仕えるという信仰の宣言をすべきです。



祈り:私はまことの主権者、いのちの主である神様だけに仕えます。

一言:ただ主である神様だけが


<<(1)    前のページ(2)    3    次のページ(4)    (12)>>

聖書別日ごとの糧