聖書別日ごとの糧   >>   ダニエル書[2025]

2025年 02月 15日 (土)

ダニエル書 5:1-21(5)
神様の手の指

 ダニエル書5章は、永遠に栄えると思われたバビロンが滅びてしまう原因を教えてくれます。当時、メディアとペルシアの連合軍によって、バビロン城は包囲されていました。国の存亡がかかった危機に陥っていたのに、バビロンのベルシャツァル王は千人の貴族たちのために大宴会を催していました。彼らはエルサレムの宮から取ってきた金、銀の器でお酒を飲みながら、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美するという悪事を行っていました。主の宮にあった器で、お酒を飲みながら、偶像の神々を賛美したことは、主なる神様の栄光を汚すという取り返しのつかない悪を犯したことになります。

その時突然、恐るべきことが起きました。神様が人間の手の指を送り、王の宮殿の塗り壁に文字を書かせました。これを見た王の顔色は変わり、動揺しました。腰の関節がゆるみ、膝はがたがた震えました。しかし、誰もこの文字を読むことも、解き明かすこともできませんでした。そこで、聖なる神の霊の宿る人としてダニエルが呼ばれて来ました。ダニエルはいと高き方である神様がネブカドネツァル王に国と偉大さと栄光と威光とをお与えになったことを伝えました。そして、彼の心が高ぶり、高慢にふるまったので、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになったことを伝えました。ネブカドネツァルが王座から退けられ栄光を奪われたのは、高慢の罪のゆえであることを思い出させ、ベルシャツァルの罪を指摘したのです。

ベルシャツァル王は父ネブカドネツァル王に起こったことを通して教訓を学ばず、高慢になり滅びの道を繰り返しました。賢い人とは歴史からの教訓を謙遜に受け入れ、心に留める人です。高ぶりは破滅に先立ちます。神様の御前での謙遜な心こそ、繁栄の道です。 



祈り:主権者である神様の前に謙遜に生きられるように助けて下さい。

一言:歴史の教訓



2025年 02月 16日 (日)

ダニエル書 5:22-31(27)
秤で量られて

 ベルシャツァル王は、父ネブカドネツァル王が心高ぶり、神様から野の獣と等しくされ、心を低くされたことを見ていたので、それを教訓として神様の御前で心を低くすべきでした。しかし、それどころか、ベルシャツァル王は天の主に向かって高ぶり、主の宮の器で酒を飲み、銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。彼は自分の息と、すべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。それで、神の前から手の先が送られて、『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』という文字が書かれたのです。解き明かすと、神が彼の治世を数えて終わらせられたという意味です。なぜ終わらせたのでしょうか。 『テケル』とは、彼が秤で量られて、目方の足りないことが分かったということで、『パルシン』とは、彼の国が分割され、メディアとペルシアとに与えられるという意味でした。ベルシャツァル王は、主である神様の御前で、自分自身の足りなさを分かっていませんでした。その結果、彼の国は分割され、メディアとペルシアに与えられた上、彼自身はその夜、殺されてしまいました。

 神様は私たちのすべてのことを秤で正確に量られるお方です。神様は私たちの髪の毛さえもすべて数えておられ(マタイ10:30)、私たちの一歩一歩をも数えておられます(ヨブ14:16)。ですから、私たちは神様の秤で量られるとき、どれほど足りない者であるかを考え、主の御前で謙遜に生きるべきです。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(黙示録3:17)」私たちは、主の御前で自分が足りなく、弱く、みじめで、盲目で、裸であることを認めるべきです。



祈り:主よ、神様の御前で足りない存在である私を愛して守って下さり感謝します。神様のために生きる人となるように助けてください。

一言:主なる神に栄光を帰しなさい


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