聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2024]

2024年 09月 04日 (水)

ヨハネの福音書20:1-10(9)
聖書を、まだ理解していなかった

週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアはイエス様が埋葬されている墓につきました。イエス様を丁重に埋葬する時間がなかったので、香料を塗りに来ましたが、果たして墓の入り口の石が取りのけられているのを見ました。彼女は驚き急いで弟子に伝えました。ペテロともう一人の弟子が走って、まずペテロが墓を見ると彼女の言う通りでした。そして、墓の中にはイエス様の遺体はなく、亜麻布が置いてあり、イエス様の頭を包んでいた布は離れたところに丸めてありました。もう一人の弟子が後から除き、「見て、信じた」とあります。いったい彼らは何を信じたのでしょうか。

9節では、弟子たちは、イエス様が死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったとあります。空っぽの墓は何を物語っているのでしょうか。イエス様の遺体が盗まれたことでしょうか。しかし、亜麻布を置いてあるのは不自然なことです。空っぽの墓、そこにはイエス様はもうおられない、イエス様はよみがえられたという証拠ではないでしょうか。しかし、彼らはまだ理解をしていませんでした。わかっているのは、マリアの言っていることは事実であると信じざるを得ない状況だけでした。イエス様のよみがえりが状況証拠で信じられるものであれば、現代の私たちは到底復活を知りうる余地もないことでしょう。しかし、聖書を理解していないという言葉が救いになります。キリストのよみがえりを信じるためには聖書のことばが証拠となるからです。人は状況や証拠によって信じるのではなく、聖書のみことばによってキリストのよみがえりを信じるのだと教えてくれています。



祈り:キリストを信じることは、聖書によるものであることを学びます。みことばから聖書とイエス様について深く知ることができますようにお助けください。

一言:聖書を理解する



2024年 09月 05日 (木)

ヨハネの福音書20:11-18(17)
神である方のもとに上る

 弟子が帰った後もマリアは一人残り、墓の外にたたずんで泣いていました。泣きながら墓をのぞき込むと、白い衣を着た二人の御使いを見ました。イエス様のからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っていました。マリアが御使いに涙の理由を答え、後ろを振り向くと、イエス様がそこに立っておられました。最初マリアはイエス様だと気づかず、園の管理人だと勘違いしました。しかし、イエス様が「マリア」と呼びかけると、彼女はイエス様だと分かり「ラボニ(先生)」と返答しました。イエス様はよみがえり、こうして実際に彼女の前に現れてくださったのです。マリアは喜び、すがりつこうとしました。しかし、イエス様は彼女を制止されました。

 イエス様はどうして彼女と喜びを分かち合わないのでしょう。それは本当の喜びを伝えるためではないでしょうか。イエス様はマリアにことづてを頼まれます。それは、神である方のもとに上ることです。イエス様はよみがえられましたが、まだ父の元に上っていません。まだイエス様は神の栄光の座に戻っておられません。しかし、イエス様が神のもとに上るとき、栄光の方となります。この時、死は死ぬことで終わらず、イエス様を信じる者のために神の国への道が完成することを意味します。まだ喜ぶには少し早かったのです。マリアはこの言葉を受けて、弟子たちのところに行き、主が自分にこれらのことを話された次第を伝えました。キリストのよみがえりは勝利の喜びです。しかし、それだけではなく、キリストが天に着座されていることが信じる者に希望を与えます。信じる者は死や裁きにあうことがなく、天の国に上る望みが与えられるからです。イエス様はまず弟子たちにこの希望を伝え、そして今生きる私たちにも神の国の希望を与えておられるのです。



祈り:一喜一憂するような日常を生きている私ですが、確固たる天の望みがキリストによって示されていることを感謝します。今日の日も御国に対する望みを増してくださいますようにお祈りします。

一言:神の国に上ること



2024年 09月 06日 (金)

ヨハネの福音書20:19-31(21)
あなたがたを遣わします

 週の初めの日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていました。イエス様はそんな弟子たちの真ん中に現れ、平安があるようにと言葉をかけられました。そして十字架で傷ついた手と脇腹を見せると、弟子たちはイエス様がよみがえったことを喜びました。イエス様はもう一度弟子たちに平安があることを祈り、次のように命令されます。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、弟子たちがこの使命を担えるように息を吹きかけて、聖霊を受けるようにと教えられました。弟子たちが遣わされる目的は罪の赦しのためです。罪の赦しは、いのちの救いになるからです。

 トマスはこの場に立ち会えないことで不満に思い、自分の目で実際に見るまではイエス様のよみがえりを信じないと主張しました。しかし、八日後にイエス様はトマスの前にも現れてくださり、彼が望んだ通り、十字架の傷跡に指を入れて確認するようにと仰せられました。そして、信じない者になるのではなく、信じる者になりなさいとイエス様がトマスに語りかけると、彼はイエス様を主として告白しました。イエス様は見ないで信じる人は幸いだとされます。弟子がこれから福音を、罪の赦しを伝える相手は、トマスのようにイエス様を直に見ることはないでしょう。しかし、それでも信じる人は幸いです。

イエス様が神の子キリストであることを信じて人々がいのちを得るために、弟子は遣わされました。私たちは仕事に学業に色々な場所に遣わされています。あなたの遣わされた場所には、キリストの使命があるでしょうか。罪の赦し、キリストの告白、いのちの救いが、あなたが遣わされた場所に起こることを祈っているでしょうか。



祈り:イエス様のよみがえりを喜ぶだけではなく、その喜びを伝え、キリストの罪の赦しによって一人でも多くの人がいのちを得ることができるようにお祈りいたします。

一言:あなたを遣わします


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