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2025年 04月 16日 (水)

コリント人への手紙第一15:1-11(3,4)       受難週
もっとも大切なこと

 使徒パウロは、自分の宣べ伝えた福音をふたたび思い起こさせながら、その福音をしっかりと保つように助けています。なぜなら、福音によってのみ救われるからです。その福音の核となる内容は何でしょうか。第一に、キリストが聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたことです。イエス様が十字架で死なれることによって、私たちの罪が赦されました。第二に、聖書に書いてあるとおりに三日目によみがえられたことです。イエス様は葬られ、三日目によみがえられることによって、死の力を打ち砕かれました。よみがえられたイエス様によって私たちは新しいいのちを得、消えることのない生ける望みを抱いて生きることが出来るようになりました。これは、聖書に書いてあるとおりに成されたことであって、決して偶然の出来事ではありません。信じる者に救いを与える神様のご計画なのです。聖書に書いてあるとおりに死なれ、よみがえられたイエス様を、私たちが信じさえすれば、私たちを取り巻くあらゆる問題が根本的に解決されます。

 イエス様のよみがえりの出来事を証明してくれる確かな証拠があります。よみがえられたイエス様が弟子たちに現れたことです。イエス様はケファ(ギリシャ語で言い換えると「ペテロ」。「ケファ」はアラム語)、十二弟子、五百人以上の兄弟たち、ヤコブ、使徒たち全員、そしてパウロにも現れました。これは、イエス様のよみがえりが客観的事実であることを裏付けています。さらに、よみがえられたイエス様に出会った人々の変化も、揺るぎない証拠です。 よみがえられたイエス様は、迫害者サウロに現れて彼を完全に変えてしまいました。彼は溢れるばかりの恵みのゆえに、他のすべての使徒たちよりも多く働きました。今もなお、よみがえられたイエス様に出会う人は、人生において新しい変化を体験するようになります。これこそ、イエス様のよみがえりの揺るぎない証拠となります。



祈り:この受難と復活の週に、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを再びかたくつかみます。

一言:聖書のとおりにイエス様は死んでよみがえられた



2025年 04月 17日 (木)

コリント人への手紙第一15:20-28(20)       受難週
初穂

もし、キリストがよみがえられていないのなら、私たちの信仰と宣教はむなしいものになってしまいます。しかし、今や、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。初穂というのは、最初の実りのことです。これからの豊かな収穫を約束してくれるものです。すなわち、イエス様が死んだ者たちの初穂として復活されたことによって、キリストに続く私たちも、イエス様のように復活することを保証してくれているのです。復活の初穂であられるイエス様のように、私たちも栄光ある姿によみがえるのです。イエス様は、体を脱ぎ捨てて御霊だけで復活されたのではありません。復活の初穂であられるイエス様が栄光ある姿に変えられてよみがえられたように、私たちの体もよみがえるようになります。

アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされます(21,22)。死者の復活には順番があります。まず初穂であられるキリストです。次に、キリストの再臨の時、キリストに属している者です。それから、キリストがあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼして、王国を父なる神様にお渡しになる終わりが来ます。最後の敵である死も滅ぼされます。キリストは万物をご自分に従わせてから、その王国を神様に引き渡されます。その時、イエス様もご自分に万物を従わせた神様に従われます。やがて、すべてにおいてすべてとなられる神様が、万物を治められます。その時、壊れていた創造の秩序が回復し、全てのものが本来の居場所を見つけるようになります。



祈り:復活の初穂であられるイエス様に感謝します。私たちが罪と死に支配された人生を生きることは、主のみこころではないことを知ります。私たちが永遠に神の王国で生きるために、ご自分の一人子を与えてくださった父なる神様を賛美いたします。

一言:初穂キリスト



2025年 04月 18日 (金)

コリント人への手紙第一15:29-34(33)      受難週
惑わされてはいけません

使徒パウロは、体の復活を信じていたので、絶えず危険にさらされていました(30)。異邦人の牧者、宣教師として、数多くの苦しみを味わいました。牢に入れられたことも多く、むち打たれたことは数えきれないほどでした。宣教の旅の途中、川の難、盗賊の難、荒野の難、海上の難などに会い、労し苦しみ、たびたび眠れぬ夜を過ごしました。飢え渇き、寒さに凍え、裸でいたこともありました。彼は、日々自分は死んでいると告白しています(31)。どうしてこのような人生を生きることが出来たのでしょうか。それは、使徒パウロが、体の復活を確信していたからです。肉体はよみがえり、神の国で永遠に生きると信じていました。それゆえ、キリストのために苦難の道を歩むことを誇りだと考えました。

もし、死者の復活がなく、この世での生活がすべてであるなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と言い、生きている間、思いっきり楽しむことに最大の価値を置くようになります。しかし、パウロは断固として言います。「惑わされてはいけません。悪い交際は良い習慣を損なうのです。目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」ここで、悪い交際とは、体の復活と神の国を信じない人々との交際を指します。彼らは復活に対する望みがないため、飲み食いし、快楽を求めて生きます。パウロは、私たちが彼らと一切関わってはならない、と言っているのではありません。ただ、目を覚まして気を付けていないと、彼らの価値観に惑わされて、福音に対する確信を失いかねないと警告しているのです。そうならないために、私たちは神について無知であってはなりません。私たちは、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされているようにしなければなりません(コロサイ1:9)。父なる神さまが与えて下さった復活と神の国についての霊的知識を深く悟り、確信することができるように祈ります。



祈り:父なる神様、私が復活の希望をしっかりと確信して生きていくことができるようにお助けください。

一言:惑わされてはいけません



2025年 04月 19日 (土)

コリント人への手紙第一15:35-49(49)      受難週
天に属する方のかたちも持つことになる

コリント教会の聖徒の中には、「死者はどのようにしてよみがえるのか、どのようなからだで来るのか」と言う人たちがいました。これについて、パウロは種の自然法則のたとえを通して、死んだ者がどのように復活するのかを説明します。種は死ななければ、芽を吹き、花を咲かせ、実をつけることができません。死は終わりではなくよみがえりの始まりなのです。死んでこそ新しい命が生まれるのです。同じく、人が新しい命を持って生きるためには、体が死ななければなりません。また、「蒔くもの」は、後にできるからだではなく、種の粒のことです。種を蒔きますが、神様はみこころに従って、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。このように、神様はみこころに従って、私たちを新しくよみがえらせてくださいます。

使徒パウロは、どのようなからだでよみがえるのかについて話します。どんな肉も同じではなく、それぞれ違います(39)。天上のからだもあり、地上のからだもあります。復活後の栄光もすべてが異なります。血肉の体は朽ちますが、御霊の体は永遠に生きることのできる朽ちない体です。血肉の体は卑しいですが、御霊の体は輝かしい栄光ある姿です。血肉の体は弱いですが、御霊の体は強いのです。この世では、アダムは血肉の体を持った者でした。しかし私たちは、将来的にイエス・キリストのかたちを持つことができます。それは、イエス様がいのちを与える御霊となるからです(45)。新しい復活の体によみがえらされることを待ち望みながら生きていきましょう。



祈り:主よ、イエス様が再び来られるまで、新しい復活の体によみがえらされる希望が私の心をいつも満たしてくれますように祈ります。

一言:天に属する方のかたち



2025年 04月 20日 (日)

コリント人への手紙第一15:50-58(57)    イースター
勝利を与えてくださった神様

使徒パウロは、復活による最後の勝利について述べています。終わりの日に、聖徒たちは神の国を相続します。その国は永遠で、栄光に輝く国です。しかし、血肉の体、朽ちるからだでは永遠の神の国に入ることはできません。必ず、朽ちるものは朽ちないものを着なければなりません。ところで、このことは、いつ、どのように起こるのでしょうか。終わりのラッパとともに、イエス様が再び来られる時に起こります。たちまち、一瞬のうちに、復活のからだに変えられます。死者は朽ちないものによみがえります。その時、聖徒のからだは傷もなく、罪もない、完全なる復活のからだを着るようになります。まさに、信じる者の究極的な切なる望みです。

終わりのラッパとともに、最後の敵である死も滅ぼされます。「死は勝利に吞み込まれた」としるされている御言葉が実現します。そして、勝利の歌を高らかに歌う日が来ます。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」その日、死は敗北します。人を脅かし、希望と信仰を揺さぶっていた死が滅びます。死が滅ぼされるので、罪と律法の力も自然と消滅します。永遠のいのちがあるのみです。律法に対して、罪に対して死なれたイエス様は死に打ち勝ち、よみがえられました。私たちはイエス・キリストにあって、罪に対しても、律法に対しても、死に対しても圧倒的な勝利者なのです。ですから、福音信仰の上に堅く立って、動かされることなく、復活の望みの中で主のわざに励んでゆこうではありませんか。



祈り:罪と死に打ち勝たれたイエス・キリストを賛美します。私がしっかりと立って、主のいのちを救う働きに完全に身を捧げることができるように助けてください。

一言:私たちの主イエス・キリストによる勝利


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