聖書別日ごとの糧   >>   イザヤ書[2006]

2006年 08月 11日 (金)

イザヤ書49:1-7
諸国の民の光


Ⅰ.わたしの栄光を現すイスラエル(1-3)

 神様は、イザヤが母の胎内にいる時から、彼の名を呼ばれました。そして彼の口を鋭い剣のようにし、彼をとぎすました矢として造られました(2)。鋭い剣ととぎすました矢は何度もハンマーでたたかれ、とぎ石でとぐことによって造られます。イザヤは砕かれる試練を受けました。しかし神様がこのようにされたのは、彼を神様の栄光を現す者として用いようとされたからです(3)。神様が私たちを召されたのは、私たちがすぐれ、能力があるからではありません。むしろ足りないものを恵みによって選ばれました。したがって私たちは多くの試練を通して、訓練され、すぐれた御言葉のしもべとして成熟しなければなりません。

Ⅱ.地の果てにまで(4-7)

 イザヤは御言葉のしもべとして、イスラエルの回復のために労苦しました。しかし期待してた実がないと、むだな骨折りをしたかのように絶望が襲いました。しかし彼は自分の報酬である神様に進み出ました(4)。すると神様は、彼に、イスラエルの回復は小さなことであり、彼を諸国の民の光とし、地の果てにまで救いをもたらそうとされることを話されました(6)。彼はこの神様の望みをつかんで、絶望から立ち上がり、外国の地にまで福音の光を照らす人になりました。神様がいない外国の世界は暗いです。神様は私たちを諸国の光として用いようとされます。


祈り:主よ!私のように足りない者でも、諸国の光として立てようとされ感謝します。私をきたえ、世界宣教に用いてください。

一言:諸国の光



2006年 08月 12日 (土)

イザヤ書49:8-26
このわたしはあなたを忘れない


 イスラエルは彼らの罪によって、バビロンに捕虜としてつかまり、多くの苦しみを受けていました。主権を失った民として、自由は剥奪され、彼らは飢え、渇き、やみの中にいました(9,10)。彼らには生きる喜びや満足がなく、希望もありませんでした。外国の地で、彼らはさすらい、取り残されました(21)。このような苦しみの中で、彼らは絶望のあまり、神様が彼らを永遠に捨てられ、お忘れになったと思いました。

 しかし神様は恵みの時に、彼らに答えられ、救いの日に、彼らを助けると言われます(8)。彼らを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせようと言われます。これ以上、飢えることも、渇くこともない、と言われます(10)。神様は決してご自分の民を苦難の中で、お見捨てになることはありません。その苦難の中で彼らを訓練された後には、憐れみを施してくださり、慰め、祝福してくださる方です(13)。

 母親が、その産んだ子どもを忘れるようなことがあっても、神様はご自分の民としたことをお忘れにはなりません。神様は、その民の名前を手のひらに刻んで、いつも見ておられます(16)。その民に対する神様の愛は絶対的なものです。苦難の中で神様の愛を確信し、神様を仰ぎ見る者は、決して恥を見ることがありません(23)。私たちはどんな苦難があっても、ひとり子をお与えになった神様を通して、神様の愛を確信することができます(ロマ5:8)。


祈り:主よ!このみじめな罪人を手のひらに刻んでくださり感謝します。苦難の中でも主の愛を覚えます。

一言:苦難の中でも、私をお忘れにならない神様


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