聖書別日ごとの糧   >>   哀歌[2018]

2018年 08月 23日 (木)

哀歌3:1-18(18)
望みは消え失せた

 では、絶望と苦しみの時、どうすればよいのでしょうか。それは、苦しみを受け入れることです。神の御前でエレミヤは苦しみを受け入れ、その苦しみを哀歌によってありのままに表現しています。この哀歌こそが彼を癒すプロセスです。苦しみを情緒的に表現できない時、回復する能力が失われます。主は苦しみを通して、敬虔を汚す罪を暴き出され、交わりを妨害する罪を赦され、滅びるしかない罪人を救われます。ですから苦しみの時には、恥ずかしく思ったり、逃げたり、自己卑下するのではなく、主の御前に真実な所感を書くことで、癒しを受けてゆく過程が大事です。また、互いの苦しみの哀歌を分かち合うとき、お互いが慰められ、苦しみもともに担うことになるのです。

適用:苦しみをどうとらえていますでしょうか

一言:主の御前であなた自身の哀歌をささげましょう



2018年 08月 24日 (金)

哀歌3:19-39(26)
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者に

 望みを見つけたエレミヤは、人が若い時に、くびきを負うのは良いと言います。くびきそのものは苦難の象徴であり、ここでは具体的にバビロンにあたります。苦難は人を正しく導く手段でもあるので、長い人生を歩む若者には必須であり、早いうちに負った方がいいと言います。「口をちりにつける(29)」ことは謙遜の現れであり、苦難の時に主の御前に黙って、自身を低めることを言います。自分を打つ者に自分の頬を与えるほど徹底して低めることです。バビロンに抵抗するのではなく、十分そしりをうけるのです。それは望みがあるからです。今は打たれていても、主はただ苦しませて悩まそうとは、思っておられません。ここには罪に対して厳しく戒め、再び新しくされる神様のみこころがあるからです。主の怒りは彼らの罪の為です。ですから、罪に対する罰を主の愛として受け、黙って待てば、回復の時が訪れます。その日を待ち望み、今の絶望に打ち勝とうではありませんか。

適用:絶望の向こうにある主の望みを待ち望みますか

一言:主からの救いを望みましょう



2018年 08月 25日 (土)

哀歌3:40-66(40)
主のみもとに立ち返ろう

 これほどの苦しみを、主が与えられたのはなぜでしょうか。エレミヤは民のそむきと逆らいの為だと悟りました。罪のために、目を開けて見ていられないような惨状を迎えたのです。苦しみがあるからこそ、主の御前に行くことで、望みがあることをエレミヤは悟り、民たちに働きかけます。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」道とは、今まで過ごしてきた人生のすべての行動と行為を指し、これを調べて誤りを見つけ出すことです。神様との関係を回復する第一段階は、まず自身の問題を正面から見つめ、省察することです。罪の深刻さ、問題点をありのまま認めることです。神様との関係を断っていた原因をまっすぐに直視して、誤りを告白すれば、神様との契約の関係は回復します。次に、私たちは神様の御前に出て行き、罪を告白し、主のあわれみを求めることです。イスラエルが生き残る道は主に立ち戻ること以外にありません。だから、エレミヤは悔い改めて、立ち返ろうと叫びます。そして彼自身の回復を願い、敵への復讐を祈り求めます(55-66)。

適用:誤った行いを調べていますか

一言:悔い改めて、立ち返りましょう


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