聖書別日ごとの糧   >>   ダニエル書[2019]

2019年 04月 09日 (火)

ダニエル書3:1-18(17,18)
もしそうでなくても

 二つの価値観がぶつかり合っています。第一は、人の命は王の手にかかっている、という考え方です。ネブカデネザル王は、ダニエルの三人の友達に、「すぐに、金の像にひれ伏して拝まないなら、ただちに火の燃える炉の中に投げ込む」と威嚇しました。ドラの平野に集まったバビロンの高級官僚たちは「王が命を統べ治めている」と考えていたので、金の像にひれ伏しました。このように考えるなら、主なる神様への信仰を捨て、金の神の像にひれ伏すようになります。そして、それが生涯、罪意識として残り、神様に仕えることも難しくなります。生涯、人の視線を気にして、人を恐れながら生きなければなりません。
 第二は、神様の手にかかっている、という考えです。ドラの平野に集まった多くの人の中で、たった三人の友達は「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。」(17)と考えました。三人の友達は神様を信じ、王の前で大胆でした。最後まで、金の神の像にひれ伏しませんでした。更には、ひれ伏さないと宣言しました(18)。
 神様は、私たちが期待していた通りに働かないこともあります。 私たちには良く見えて、自分の判断が正しいと思えても、神様はそのように考えない時もあります。望むことがこの世の誇りと、目の前の情欲であれば、そうならないことに感謝すべきです。三人の友達が信じて願うことは、信仰を守って、主が燃える火から救ってくださることです。しかし、もしそうならなかったら、彼らの死は空しく見えないでしょうか。それでも彼らは、金の神の像にはひれ伏さない、と言いました。 彼らの望み通りに行かなくても、例え、今は主の御旨を知らなくても、神様の正しい御心と、計画があると信じました。多くの人は、自分に良ければ、神様を信じ、自分に損になれば、基準が自己中心的をで、打算的であるからで、神様が正しいことを信じると言いながらも、状況に従ってゆり動かされ、神様を疑います。そうであっても信じ、そうでなくても信じる人が、本当の信仰ある人です。


適用:私が願うとおりになれば、神様に仕えようとするのですか

一言:もしそうでなくても



2019年 04月 10日 (水)

ダニエル書3:19-30(29)
このように救い出すことのできる神は、ほかにない

 楽器の音に合わせて、バビロンの全ての高官たちがいっせいに金の神の像にひれ伏しました。その中で、ダニエルの三人の友達だけが、主なる神様の信仰を守るために、ひれ伏しませんでした。この姿は、当時神様の民が処せられた状況の縮小版です。巨大な不信仰の世界が、力のない神様の民をとり囲んでいました。信仰が不信の中に葬られてしまったかのようでした。果たして、誰が世の中を治めているのでしょうか。バビロン、ネブカデネザル王が世の主人のように見えました。
 怒りに満ちたネブカデネザル王は、炉を普通より七倍熱くして、金の神の像にひれ伏さないダニエルの三人の友達を投げ入れました。ところが、火に焼かれたのは、投げ込んだ人達のほうでした。三人の友達は害されることなく、火の中を歩んでいました。彼らの信仰の通りに、神様が使いを送って、彼らを守ってくださいました。火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、火のにおいもしませんでした。炉は鉄をとかします。ネブカデネザルは炉を七倍も熱くしました。しかし、神様が保護されるので、髪の毛も害することもできません。ネブカデネザルの思いはむなしいものとなり、彼の権威は神様の前で、無力でした。ネブカデネザル王は、バビロンで生きている神として崇められていました。しかしバビロンの全ての高官たちの前で、ダニエルの三人の友達の神様こそが本当に強い方であり、本当の神であることが明らかになりました。巨大な不信仰の世界の中で、信仰が勝利し、神様が賛美を受けられました。神様の世の主管者です。神様がいのちを主管されます。神様は、ご自分に頼り、他の神に仕えない信仰の人を救ってくださいます。それで、今はたとえ信仰の世界の中で、神様の民が混じっていたとしても、結局は勝利します。これは、苦難を受けている神様の民に大きな慰めと望みになります。弱くても、大胆に不信仰の勢力に立ち向かう力と勇気を持つようにしてくれます。それを信じて、私たち断固、神様に仕える、と宣言しなければなりません。神様にだけひれ伏すと宣布しなければなりません。


適用:誰が人を救うのか

一言:ただ主


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