2006年 05月 24日 (水)
パリサイ人をお咎めになったイエス様
Ⅰ.偽善者パリサイ人(1-13)
エルサレムから来ていたパリサイ人たちはイエス様の弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見て辛らつに非難しました。パリサイ人たちの生活は外側から見ると非のうちどころがないほど完璧でした(3,4)。しかしイエス様はイザヤ書の御言葉を通して、彼らの偽善をお咎めになりました。彼らは神様の御言葉よりも、昔の人たちの言い伝えを絶対視しました。言い伝えを優先にして巧妙に戒めを捨てて、利己的な欲望を満たします。口先では神様を敬いますが、実際の心は神様から遠く離れていました(6)。
人の言い伝えは時代に従って変わります。しかし神様の御言葉は永遠に変わることのない絶対的な真理です(Ⅰペテ1:25)。
Ⅱ.人を汚すもの(14-23)
イエス様は、外側から入って来るものは人を汚すことができない、と言われました。なぜなら全ての食物は心に入っていかず、腹に入り、そしてかわやに出されてしまうからです(19)。
しかし本当に人を汚すものは食物ではなく、人の心から出て来るものです。20,21節をご覧ください。このような汚れた心が、いつも手を洗っているからといって、きよくなるでしょうか。その心の悪を悔い改めて罪の赦しを受けなければきよくなることはできません。
祈り:主よ!私は本質的には憤りの子どもです。私の心を主の血できよめ、洗ってくださり、主の御言葉にだけ従うようにしてください。
一言:人を汚すもの
2006年 05月 25日 (木)
スロ・フェニキヤの女を迎え入れたイエス様
Ⅰ.「主よ。そのとおりです。でも」(24-28)
スロ・フェニキヤの女は汚れた霊につかれた娘を癒してくださいと哀願しました。しかしイエス様は、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と拒絶されました(27)。この御言葉はイスラエルを通しての救いの御業の原則を教える御言葉です。ところがこの御言葉は言葉だけを聞けば、女の致命的な弱点をつく御言葉のようでもあります。
それでもこの女はイエス様に感情的に接しませんでした。28節をご覧ください。彼女はまず主の御言葉の妥当性を認めました。また自分自身が主の愛を受ける資格のない惨めな異邦人であることを肯定しました。そしてイエス様の憐れみだけを求めました。
この女の信仰は本当に謙遜で真実なものです。価値のない自尊心で主の御言葉を排斥する者は信仰がない証拠です。この女はどんな場合であっても、イエス様の御言葉と彼女自身を認めることで、主を感動させました。
Ⅱ.「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。」(29,30)
この女の答えを聞かれたイエス様は彼女の信仰を深く認められました。彼女の信仰を祝福し、幼い娘の病を癒してくださいました。信仰によって家に帰ってみると、イエス様の御言葉通りに娘から悪霊は出て行きました。イエス様は初めにこのスロ・フェニキヤの女の信仰を試して見たのです(27)。
祈り:主よ!私が虚しい自尊心を捨て主に出て行きます。私を憐れんでくださり、汚れた霊に苦しむあの幼いたましいを救ってください。
一言:主よ。そのとおりです。でも・・・
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