聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2006]

2006年 06月 13日 (火)

マルコ9:1-13
彼の言うことを聞きなさい


Ⅰ.御姿が変わられたイエス様(1-3)

 イエス様が十字架の道を教えられてから六日の後、三人の弟子を連れて高い山に上って行かれました。そして彼らの前で栄光ある御姿に変わられました。その御衣はまぶしいくらいに白くなりました。罪人に仕えるために傷つくままに傷つかれたイエス様の姿ではありませんでした。その御姿は天地を創造された神様としての本来の御姿であり、将来よみがえられる栄光ある御姿です。

Ⅱ.彼の言うことを聞きなさい(4-13)

 その時、モーセとエリヤが現れて、イエス様と共にイエス様の十字架の死について語り合っていました(ルカ9:31)。それはイエス様が十字架の死を通して、救いの御業を完成し、復活の栄光に至ることを見せたものです。しかしこれを悟ることができなかったペテロは恍惚状態になり、「幕屋を三つ造り、そこに住もう。」と提案しました。彼は十字架のない栄光だけを受けたいと願いました。

 このような弟子たちに神様が雲の中から臨在され、言われました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」彼らが聞くべき御言葉は何でしょうか。イエス様は降りて行きながら、弟子たちに十字架の苦難と死を通して復活の栄光に至ることを言われました(12)。私たちは十字架の苦難を通してのみ、神様の栄光に至ることを受け入れなければなりません。また復活の栄光と望みがある時に、十字架の道を歩むことができます。


祈り:主よ!私が将来受ける復活の栄光を仰ぎ見て、喜びで十字架をよく担うことができるように助けてください。

一言:苦難を通しての栄光



2006年 06月 14日 (水)

マルコ9:14-29
信じる者には、どんなことでもできるのです


Ⅰ.「できるものなら、と言うのか。」(14-24)

 イエス様が山から下りて来られた時、山のふもとにいた弟子たちは律法学者たちと論じ合っていました。彼らはおしの霊を追い出そうとして失敗し、恥をかいてしまいました。イエス様は、無能な弟子たち、議論を好む律法学者たち、絶望している父親をご覧になり、「不信仰な世だ。」と嘆かれました(19)。そして悪霊につかれた子の父親に言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23)。イエス様は「もし、おできになるものなら。」と半信半疑の父親の不信仰をお咎めになり、信仰を植えてくださいました。

 半信半疑は信仰ではありません。信仰とは自分の経験に基づいた考えを捨て、イエス様にだけ全面的に頼ることです。このような信仰を持った者には不可能なことがありません(ピリ4:13)。

Ⅱ.祈りによらなければ(25-29)

 イエス様はその権威ある御言葉で汚れた霊をしかって追い出しました。そして彼の手を取って子どもを起こされると、死んだ者のようだった子どもが立ち上がりました。イエス様は、自分たちが失敗した原因を尋ねる弟子たちに、言われました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」。祈らなければ、悪霊の勢力を退けることができません。


祈り:主よ!私の信仰がないことを憐れんでください。私に祈りの力を施してください。

一言:信仰の力は祈りの力から



2006年 06月 15日 (木)

マルコ9:30-41
本当に一番偉い人


Ⅰ.みなに仕える者(30-37)

 イエス様は、ご自分が多くの苦しみを受け、殺され、三日の後によみがえることを、繰り返して教えられました。しかし弟子たちはこれを理解することができないだけではなく、尋ねるのを恐れていました。彼らの関心は、ただ誰が一番偉いのかに、ありました。それで道で論じ合っていました。イエス様はこのような彼らに、本当に偉い人はどんな人であるのか、を話されました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(35)。

 人々は誰でも一番偉い人になりたい野心を持っています。しかし本当に人の先に立つためには、みなのしんがりとなり、みなに仕える者にならなければなりません。イエス様は本来神様でしたが、罪人を救うために、ご自分を卑しくされ、しもべの姿になりました。それでイエス様は一番偉い人になりました(ピリ2:6-10)。私たちがこのイエス様の御心を見習う時、すべての人に仕えることができます。幼子のように弱い人も抱いて、仕えることができます(37)。

Ⅱ.人を受け入れる者(38-41)

 ヨハネは自分たちの仲間ではない者に悪霊を追い出すことをやめさせました(38)。しかしイエス様は「私たちに反対しない者は、私たちの味方である」と言われました。キリストの中で、多くの人を抱く者が一番偉い人です。


祈り:主よ!私の傲慢と心が狭いことを悔い改めます。イエス様を見習って多くの人を抱き、仕える謙遜なしもべになるように、助けてください。

一言:仕える者が一番偉い



2006年 06月 16日 (金)

マルコ9:42-50
罪に対する警告


Ⅰ.つまずくことより、不具の身になるほうがよい(42-49)

 イエス様は、誰でも信仰が幼い兄弟をつまずかせるなら、大きい石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と言われました(42)。兄弟をつまずかせることはそれだけ深刻な罪です。

 イエス様は、また、手や足や目があなたのつまずきとなるなら、切り捨てなさいと言われました。不具の身でいのちにはいるほうが、両手(両足、両目)そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、よいからです。この御言葉は手が罪を犯したからといって手を切り捨ててしまえという意味ではありません。罪がどれだけ深刻な結果をもたらすのかを知り、罪を犯すことを恐れよという意味です。私たちが罪を犯せば、罪の代価として死に、その後にはさばきを受けるようになります(ヘブ9:27)。罪を犯した者は火と硫黄の燃える池の中で永遠に苦しむようになります(黙21:8)。そこはうじも死なず、火も消えません。このように恐ろしい罪の結果を知れば、罪の誘惑に陥らず、罪の本性と戦うようになります。

Ⅱ.塩けを保ち、和解しなさい(50)

 塩はその味を失えば、何の役にも立ちません。イエス様の弟子たちはその時代の腐敗を防止する塩のような存在です。ところが弟子たちがイエス様の弟子らしい内面を失ってしまったら、彼らはまるで塩けをなくした塩のようになります。それで弟子たちはイエス様を間に置いて、互いに和合しなければなりません。


祈り:主よ!恐れる心なく人生をむやみに生きて来た罪を悔い改めます。主の前で恐れおののいて、生きることができるように助けてください。

一言:永遠のいのちか、地獄か


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