聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2006]

2006年 06月 17日 (土)

マルコ10:1-16
結婚の真理を教えられたイエス様


Ⅰ.離婚を禁じられたイエス様(1-12)

 パリサイ人たちはイエス様をためそうと、モーセの離婚法に基づいて、妻と離別することが許されるかどうか、尋ねました(2,4)。イエス様は、モーセがこのように命じたのは民たちの心がかたくななためだ、と言われました(5)。モーセは、民が女を情欲の対象にだけ利用し無責任に捨てることを防止し、女を保護するために正当な事由が記録された離婚状を書いて渡すように、命じました。しかし民たちは離婚状さえ書いて渡せば、妻と離別できると考えました。

 イエス様は彼らに創世記の御言葉を根拠に、結婚の真理を教えてくださいました。結婚とは神様がくださった使命のために、その御旨に従ってつながる聖なる、神聖なる絶対的なものです。それで人が任意に引き離すことができません。離婚は神様の主権を無視することであり、姦淫を犯すことです(11,12)。離婚は自分の体と社会を破壊させる悪い行為です。離婚によって子どもたちは心に深い傷を受け、さまようようになります。

Ⅱ.子どもたちを受け入れられたイエス様(13-16)

 イエス様は幼い子どもたちがご自分のところに来るのを叱る弟子たちに対して憤られ、「神様の国に入るためには子どもたちのようにならなければならない。」と言われました。神様の御国は幼子のように単純に信じ、信頼する者のものです。パリサイ人と弟子たちのように弱者を無視する人々は神様の御国に入ることができません。


祈り:主よ!パリサイ人のようにかたくなな心を悔い改め、幼子のように純粋で真実な心を持たせてください。

一言:結婚は聖なる神聖なもの



2006年 06月 18日 (日)

マルコ10:17-31
永遠のいのちを受ける道


Ⅰ.一つ欠けたこと(17-22)

 ある人が永遠のいのちを切に得たいと思い、イエス様に走り寄って、御前にひざまずいて尋ねました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」彼は小さい時から徹底して戒めを守って来ましたが、永遠のいのちに対する確信がありませんでした(20)。

 イエス様は彼を愛され、一つ欠けていたことを教えてくださいました(21)。彼は戒めをよく守り、道徳的には非のうちどころがありませんでした。しかし戒めの根本精神である愛を実践しない利己的な人でした。イエス様は彼が持っている財産を売り払い、貧しい人々に分け与えることで愛を実践するように言われました。そしてイエス様について行く弟子になるように言われました。しかしその人は多くの財産に望みを置いていました。彼が永遠のいのちを得るためには、世の宝を捨てて本当の宝であるイエス様を所有しなければなりません。

Ⅱ.主と福音のために犠牲する人が受ける祝福(23-31)

 弟子たちは「裕福な者が神の国にはいることが難しい。」と聞いて、「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」とひどく驚きました。それでイエス様は人にはできないことですが、神様にはできると言われました。永遠のいのちは人間の力で得ることはできない神様のプレゼントです。主と福音のために犠牲する人は、この時代には迫害の中で百倍の祝福を受け、後の世では必ず永遠のいのちを受けるようになります(30)。


祈り:主よ!朽ちる世の宝に望みを置かず、本当の宝であるイエス様を所有できるように助けてください。

一言:本当の宝イエス様



2006年 06月 19日 (月)

マルコ10:32-45
仕えるために来られたイエス様


Ⅰ.栄光の座を求める弟子たち(32-41)

 イエス様は十字架を背負うためにエルサレムに上る途中でした。イエス様はもう一度弟子たちに、ご自分が異邦人たちにあざけられ、殺されることを話されました(33,34)。しかしヤコブとヨハネは世の欲望に目がくらみ、イエス様が栄光を受けられる時、自分たちをイエス様の両側に座らせて欲しいと頼みました。他の弟子たちの本心もそれと同様でした(41)。

Ⅱ.仕えるために来られたイエス様(42-45)

 イエス様は高くなろうとする弟子たちを呼び寄せて、仕えるしもべの道を教えてくださいました。世の権力者たちは民を思いのままに治め、権力を奮います。人々は他人の上に君臨し、仕えられる者が偉大な者だと考えます。しかしイエス様がご覧になる時、本当に偉大な者は謙遜に低くなり、他人に仕える者であり、すべての人のしもべになる人です(43,44)。

 イエス様は仕えるしもべの手本になりました。イエス様は創造主神様として当然仕えられなければならない方です。しかしイエス様は仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られ、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来られたと言われました(45)。このイエス様こそ最も偉大な方です。私たちが本当に偉大な者になることを願うなら、仕えるしもべの道を学ばなければなりません。


祈り:主よ!虚しい栄光を求める心を悔い改めます。これからは仕えるしもべイエス様を見習って、偉大な人生を生きるように助けてください。

一言:仕える者が本当に偉大な者



2006年 06月 20日 (火)

マルコ10:46-52
盲人の目を開かれたイエス様


Ⅰ.ますます叫び立てたバルテマイ(46-49)

 イエス様がエリコに出られた時、盲人のこじきであるバルテマイに会いました。彼は非常に運命的であり悲しい人でした。しかし彼にはイエス様に対する信仰がありました。それでイエス様が通られるうわさを聞いて、叫び始めました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」その声があまりにも大きかったのか、大勢でたしなめました。

 しかし彼は自分に与えられた機会を逃すことができませんでした。これが最後の機会だと考え、切迫した気持ちでさらに大きく叫び立てました(48)。イエス様はこのようなバルテマイの叫ぶ祈りを聞かれ、立ち止まって、彼を呼ばれました(49)。私たちが祈る時、これがイエス様から助けられる最後の機会という切迫した気持ちで叫ぶ時、主がその祈りを聞いてくださいます。

Ⅱ.盲人の目を開いてくださったイエス様(50-52)

 イエス様はバルテマイを助ける前に、彼の望みを聞かれました。その時、彼は他のものより、目が見えるようになることを願い、自分の願いをはっきりと知らせました。イエス様は彼の願いを聞かれ、彼の信仰どおりに祝福し、彼の目を開いてくださいました。私たちがイエス様に祈る時、はっきりと、具体的な祈りの課題がなければなりません。私たちが盲人のように具体的な祈りの課題で祈ると、具体的な祈りの答えを受けることができます。


祈り:主よ!私がバルテマイのように主を切に探すように助けてください。霊的に目の見えない私の目を開いてください。

一言:機会はいつもあるわけではない


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