聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2006]

2006年 06月 25日 (日)

マルコ12:1-12
ぶどう園の農夫のたとえ


 主人はぶどう園を造って、農夫たちに貸して、旅に出かけました。農夫たちはぶどう園をよく管理して主人に決められた収穫を納めることを約束しました。季節になり、主人が収穫の分けまえを受け取りに一人のしもべを遣わしましたが、農夫たちはそのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り返しました。彼らはぶどう園を精根込めて管理して行くうちに愛着がわき、ぶどう園がまるで自分たちのものであるかのように考えるようになりました。その結果、決められた収穫を納めることが惜しくなりました。これは本当に主人を侮辱する行為であり、恩を仇で返す罪に他なりません。

 しかし主人は彼らの心を立ち返らせるために、続けて他のしもべたちを送りました。それにも関わらず、彼らは続けてしもべたちを袋だたきにしたり、はずかしめたり、ついには殺したりしました。主人は最後にひとり息子を送って、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と期待しました(6)。この主人の心はお選びになった者を最後まで愛される神様の心です。しかし貪欲の奴隷になった農夫たちはひとり息子までつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。主人は自分の愛を蔑しんだ農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園を他の農夫たちに与えてしまいました(9)。

 イエス様はこのたとえを通して、宗教指導者たちの問題を指摘し、悔い改めることを促されました。そしてご自分は殺されますが、礎の石になることを予告されました。しかし彼らは最後まで悔い改めませんでした(12)。神様のぶどう園を預かった私たちが貪欲に目がくらむ時、恩を忘れる大きな罪を犯すようになります。


祈り:主よ!私の内面に農夫のような貪欲の罪があったことを知り、悔い改めます。私が管理人の姿勢を持つように助けてください。

一言:恩を仇で返すことは、自分の墓穴を掘る行為だ



2006年 06月 26日 (月)

マルコ12:13-27
生きている者の神様


Ⅰ.カイザルのものはカイザルに返しなさい(13-17)

 パリサイ人たちはヘロデ党と手を組んで、イエス様をわなに陥れようと、たいへん悪賢い質問をしました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。」(14)。税金の問題は当時ユダヤ人たちにとって、たいへん敏感な問題でした。その時、イエス様はデナリ銀貨を持って来させ、「カイザルのものはカイザルに、神様のものは神様に返しなさい。」と言われました(17)。この御言葉のように、クリスチャンは国家に対する義務も果たし、同時に神様に対する義務も果たさなければなりません。

Ⅱ.生きている者の神様(18-27)

 サドカイ人たちは来世と復活を否定するために、七人の兄弟と順番に結婚した一人の女に関するおかしな話を持ち出して来ました(19-23)。この話は、もし復活があるなら倫理的に大きな矛盾が発生するようになるので、復活はあってはならないことを強調するために作り出した話です。彼らの主張は論理的のように思えます。しかし彼らは聖書と神様の力に対して、復活と天の御国についても、何も知りませんでした。

 イエス様は彼らの無知を悟らせた後、モーセ五書を根拠に、生きている者の神様を教えてくださいました。私たちが信じる神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、みなよみがえり、今神様の前で生きています(26)。それで神様は死んだ者をよみがえらせる力ある神様です。


祈り:主よ!私が国家に対する義務も怠らず、生きている者の神様を信じ、復活信仰によって生きるように、助けてください。

一言:アブラハムの神様は私の神様



2006年 07月 20日 (木)

マルコ12:28-37
一番たいせつな命令


Ⅰ.神様の愛と隣人愛(28-34)

 律法学者のうちの一人が、イエス様がパリサイ人とサドカイ人の議論にみごとに答えられたのを見て、感銘を受けました。それで彼は日頃疑問に思っていたことをイエス様に質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イスラエルには、十戒やモーセ五書のほかにも、言い伝えとして残されて来た戒めが多くありました。この全ての命令の中で、一番大切な命令は何でしょうか。

 第一は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です(30)。第二は、「あなたの隣人をあなた身のように愛せよ。」です(31)。このような神様への愛と隣人愛が全ての律法の根本精神です。このような愛を学び実践する時、すべての律法を守るようになります。律法を条目ごとに全て守ったとしても、愛がなければ形式的であり、偽善的な生活に過ぎません。私たちは律法よりも、愛の戒めに基づいた生活をしなければなりません。

Ⅱ.ダビデの主、イエス・キリスト(35-37)

 当時の律法学者たちは、キリストを、ダビデの子として考えました。つまりダビデのような単なる政治的な人物として期待したのでした。しかしイエス様は詩篇の御言葉を引用して、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのか、と言われました(37)。キリストはダビデの主であり、全能なる神様と同等な方です。


祈り:主よ!私にキリストの救いの愛が満ち、心を尽くして神様を愛し、兄弟を愛するようにしてください。

一言:神様を愛し、隣人を愛せよ



2006年 07月 21日 (金)

マルコ12:38-44
やもめのレプタ銅貨


Ⅰ.律法学者たちには気をつけなさい(38-40)

 イエス様は弟子たちに、律法学者たちには気をつけるように、言われました。彼らは長い衣をまとって歩き回りました。広場であいさつされることや、会堂の上座、宴会の上席を好みました。しかし彼らの内面はやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをする貪欲と偽善に満ちていました(40)。彼らは神様から人一倍厳しい罰を受けるのです。

Ⅱ.レプタ銅貨二枚を献金したやもめの信仰(41-44)

 イエス様は献金箱に向かってすわり、人々が献金する様子を見ておられました。多くの金持ちは「そら見ろ」と言わんばかりに大金を投げ入れました。彼らは誰よりも自分たちが神様に多くをささげ、献身的な生活をしていると考えていました。しかし一人の貧しいやもめはレプタ銅貨二枚を入れるのがやっとで、神様に多くささげることのできない自分に恥ずかしさを感じていました。人々もこのようなやもめの献金を無視しました。

 しかしイエス様は弟子たちを呼び寄せて、この貧しいやもめが最も多く献金したと賞賛されました。なぜなら彼女は乏しい中から、自分の生活費全部をささげたからです(44)。このやもめは神様が食べさせ着せてくださることを信じる信仰があったので、力が満ち溢れる献金をささげることができました。神様はささげた金額より、心を受け入れてくださいます。ない中でも、私たちの心を主にささげる時、神様がその信仰をご覧になり、喜ばれます。


祈り:主よ!私が形式と偽善の罪に陥っていたことを悔い改めます。今、貧しいやもめのように私自身をささげるように、助けてください。

一言:自分をささげる信仰


<<(1)    前のページ(11)    12    次のページ(13)    (16)>>

聖書別日ごとの糧