聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2006]

2006年 09月 30日 (土)

Ⅰコリント15:1-11
復活の信仰


Ⅰ.福音の基礎(1-4)

 コリント人への手紙第一15章は、「復活章」と呼ばれています。コリント教会には多くの問題がありましたが、使徒パウロは、最後に彼らに復活の信仰と復活の望みを植えて、これを克服するように助けようとしました。使徒パウロは、自分が宣べ伝えた福音を思い起こさせ、その福音をしっかりと保っているように命じます。その福音の内容は、第一に、キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたことです(3)。イエス様は、ご自分に罪があるからではなく、私たちの罪を担うために十字架で苦しみを受けられ、血を流して死なれました。イエス様の死は私たちの罪を贖うための死でした。福音の内容は、第二に、イエス様が葬られ、聖書に従って三日目によみがえられたことです(4)。イエス様は葬られてから三日目に、死の力に打ち勝たれ、よみがえられました。イエス様はよみがえられたことで、ご自分がキリストであることと、ご自分の死がキリストの死であることを、示されました。

Ⅱ.キリストの復活の証人たち(6-11)

 よみがえられたイエス様はケパと弟子たちにまず現れました。弟子たちが恐れを克服し、大胆なイエス様の証人になったのは、よみがえられたイエス様を直接目撃したからです。イエス様を信じる人々を迫害したサウルが使徒パウロに変わったのも、彼がよみがえられたイエス様に出会ったからです。彼らの変化はイエス様のよみがえりが歴史的な事実であることを証ししています。


祈り:主よ!この時間、主の十字架の死とよみがえりを新たに受け入れます。私がいつも復活信仰によって生きるように助けてください。

一言:復活の信仰をしっかりと守ろう



2006年 10月 01日 (日)

Ⅰコリント15:12-19
もし、死者の復活がないのなら、


Ⅰ.もし、死者の復活がないのなら(12-16)

 ギリシヤ哲学の影響を受けた人々は、たましいの不滅は信じましたが、肉体の復活は信じませんでした。これは、彼らが人間をたましいと肉体の二元論的な存在として考え、肉体は悪いものだと思ったからです。ところが死者の復活がなければ、キリストもよみがえることができません。キリストは私たちと同じ肉体を着て、この地に来られました。神様がこのようなキリストをよみがえらせたことは、死者の復活があることを、話してくれるのです(15)。今日でも、クリスチャンとは言いながら、死者の復活を信じていない場合があります。彼らは、信仰を成功と成就の道具として扱いますが、復活は理性的ではないからといって信じません。しかし彼らは死の限界から抜け出すことができないばかりか、本当の満足と望みを持つことができません。

Ⅱ.キリストがよみがえらなければ(17-19)

 キリストのよみがえりは福音の基礎です。もしキリストがよみがえらなければ、私たちの信仰はむなしく、私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです。福音の証人たちはみなうそつきになり、主と福音のために労苦した信仰の先祖たちの献身も、みなむなしいものになってしまいます。一言で、クリスチャンたちはすべての人の中で一番哀れな者になります。しかしキリストは聖書に示す通りによみがえられました。今も数多くの人々が復活の信仰を信じ、生まれ変わり、罪の赦しの恵みを受け、復活の生ける望みの中で生きています。


祈り:主よ!私がキリスト・イエスの復活を信じます。私が今日も復活の信仰でこの世に勝利するように助けてください。

一言:最も哀れな者は復活信仰がない人



2006年 10月 02日 (月)

Ⅰコリント15:20-34
私にとって、毎日が死の連続です。


Ⅰ.眠った者の初穂となったイエス様(20-28)

 キリストがよみがえられたことで、眠った者の初穂となりました。これはキリストの中で死んだ人々が、みなイエス様のようによみがえることを保障してくれるものです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされます(22)。主の子どもである私たちは、キリストが再臨される時、よみがえります。キリストが再臨される時、歴史の終末が来ます(24)。その時、どんなことが起きるのでしょうか。キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、ついには死も滅ぼされます。その時には、死がこれ以上人々を恐れさせ、悲しませることはありません。イエス様が万物を従わせた後には、イエス様ご自身も神様に服従することで、万物の秩序が回復します。

Ⅱ.毎日が死の連続です(29-34)

 パウロは復活の生ける望みをはっきりと持っていました。その時、彼は世に恐れがありませんでした。彼は福音を宣べ伝えるために、自分の命を惜しみませんでした。エペソで多くの福音の敵たちといのちがけで戦い、勝利しました。「毎日が死の連続です。」と言う彼の告白のように、毎日殉教者としての生活ができたのは、復活に対するはっきりとした信仰と生ける望みが、いつも生きていたからです。彼はコリントの聖徒たちが世の偽りの価値観にだまされることなく、目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめるように、言っています。復活信仰がある時、私たちはどんな苦難と逆境でも、楽に打ち進むことができるのです。


祈り:主よ!私がいつも復活信仰で生きるように助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2006年 10月 03日 (火)

Ⅰコリント15:35-49
どのようなからだで来るのか


Ⅰ.神様は、みこころに従って、それにからだを与え(35-41)

 コリントの聖徒たちの中には、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と質問する人々がいました。パウロは彼らに種と花のたとえを通して、これを説明します。種が地に落ちて死ねば花が咲くように、私たちのからだも死ねばよみがえります。また地に種をまけば、そこから小さくて黒い種とは全く異なった美しい花が咲きます。このように私たちがよみがえる時は、今とはまったく違うからだを着るようになります。

 からだには、天上のからだもあり、地上のからだもあります。またその栄光も違います。私たちがよみがえる時には、天上のからだを着て、天上にある栄光を着るようになるのです。

Ⅱ.キリストのからだを着るようになります(42-49)

 今、私たちのからだは地上に属するからだであり、弱く、卑しいものです。このからだのために、私たちは「生・老・病・死」の中で多くの痛みと悲しみを受けます。また肉の欲望のために願わずに罪に落ちます。そして年をとれば、弱く醜くなります。私たちのからだは本当に卑しいものです。しかし将来私たちは永遠に朽ちることのない御霊に属するからだによみがえらされるのです。強く栄光あるからだによみがえります(42-44)。私たちは今アダムのように地に属する人のかたちを持っています。しかし復活の日にはキリストに似た、天上に属する栄光あるかたちを持つようになるのです。


祈り:主よ!私たちが今は恥ずかしい姿でいますが、将来来る栄光ある姿を仰ぎ見れば、望みが満ち溢れます。

一言:天上に属する私のからだ



2006年 10月 04日 (水)

Ⅰコリント15:50-58
最後の勝利


Ⅰ.終わりのラッパ(50-53)

 神様はご自分の子どもたちに神様の御国を相続してくださいます。その国は永遠で、聖なるもの、栄光あるものです。私たちがこれを相続するためには、必ず朽ちるからだが朽ちないからだに変わらなければなりません。では、私たちはいつ、どのように変わるのでしょうか。51節をご覧ください。主が再び来られるその日、最後のラッパが鳴り響く時、たちまち、一瞬のうちに、変えられます。死者はみな朽ちない、栄光あるからだで、よみがえるのです。その時、私たちは神様の御国を相続することができます。反面、福音を退け、堕落した本性のまま生きた人々は、泣いて歯ぎしりするようになるのです(マタ13:42)。

Ⅱ.死はのまれた(54-58)

 終わりのラッパが鳴る時、死が征服されます。「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。死は残忍な暴君のように人類を支配して来ました。しかしイエス様が再臨される時、死はイエス様に征服され、二度と力が使えなくなります。同時に、罪と律法も力を失ってしまいます。永遠のいのちが支配する世界が到来するのです。では、この復活の栄光ある生きた望みを持った人々はどんな生活をしなければならないのでしょうか。58節をご覧ください。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」


祈り:主よ!最後の勝利をくださる主を仰ぎ見ます。この栄光ある望みをつかみ、主の御業に励む者になるように助けてください。

一言:保障された最後の勝利


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