聖書別日ごとの糧   >>   コロサイ[2021]

2021年 02月 21日 (日)

コロサイ人への手紙1:1-14(9)
パウロの祈りと感謝

 使徒パウロは、コロサイの教会を築き上げたエパフラス(7)から、教会が難しい状況にあることを聞き(8)、福音信仰の上に教会を堅くするために手紙を書きました。パウロは、彼らのことを祈る時に、いつも、主イエス・キリストの父なる神に感謝しました。彼らの問題だけに縛られませんでした。パウロは、彼らの中で興った聖霊の御業を、まず感謝します。キリストに忠実に仕えるエパフラスが福音を伝え、コロサイの聖徒たちはキリスト・イエスを信じました。その信仰に立ち、彼らは神を愛し、神の聖徒たちにも愛を抱きました。それだけではなく、神の国への望みにより、天に蓄える生活をしていました。信仰、愛、望みは、信仰の三要素です。その中でも、愛が一番です。愛は信仰のあかし、望みの実でもあります。パウロは、彼らの信仰を感謝し、同時に彼らにも神様に感謝をささげてほしいと祈ります。パウロが感謝したように、たとえ難しい中にあっても、彼らも神様に感謝をささげるようにと言います。暗闇の力から救い出し、贖い、罪の赦しを得ていることに感謝するべきです(13,14)。感謝とは、信仰と愛にあふれているか、その程度を測りとる物差しです。

 彼らの便りを聞いた日から、パウロは絶えず、彼らが成長するように祈り求めています。信仰で問題が起こる最も大きな原因に、主の御心を十分に悟れないことがあります。霊的な知恵と理解力によって、パウロは神のみこころについての知識に満たされるように祈ります。みこころを知れば、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結びます。また、神を知ることにおいて成長してゆきます。そして、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容になります。ですから、わたしたちも神のみこころについての知識に満たされることを祈り求めてゆきましょう。



適用:私が祈り求めることは何ですか

一言:神のみこころを悟ることです



2021年 02月 22日 (月)

コロサイ人への手紙1:15-23(23)
信仰に堅く立ち

 キリスト教の核心は、キリストです。では、キリストは、どんな方でしょうか。まず、神様と被造物との間で見れば、イエス様はことばとして万物に先立ち、主とともにおられ、栄光ある神です。イエス様は、見えない神のかたちであり、目に見えるかたちで人となられた神様です。また、すべての造られたものより先に生まれた方です。万物は、御子によって造られ、御子のために造られ、存在します(ロマ11:36)。天と地、人、その他、目に見えるすべての物を創造され、目に見えない霊的な世界や天使、風、空気もイエス様が造られました。御子のみこころのままに王や権力者を立てられました。

 教会との間で見れば、イエス様は、教会を造られ、教会のかしらです。御子は教会の初めであり、死者の中から最初に生まれ、神様の右に座しておられます。神様は、ご自分の満ち満ちたものを、すべて御子のうちに宿らせました。イエス様の中にあるなら、私たちも神様の全ての満ち満ちたことを体験できます。イエス様の中にある、一番満ち満ちた神様の恵みは何でしょうか。それは、平和です。御子の十字架の血によって、イエス様は神様と万物を和解させてくださいました。それだけではありません。神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にいた私たちを、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、和解させてくださいました。私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。子どもとして受け入れてくださったのです。このすべてはイエス様によって与えられた恵みです。私たちは、御子を信じる信仰に土台を据え、堅く立ちましょう。誰かから誘惑を受けたとしても、ゆるぎなく、信仰にとどまるのです。そうすれば、私たちもイエス様による神様の恵みに満たされるでしょう。



適用:揺れていますか

一言:堅く立ちましょう



2021年 02月 23日 (火)

コロサイ人への手紙1:24-2:5(24)
キリストの苦しみの欠けたところを満たす

 パウロは福音に仕える者です。福音に仕える者とは、教会に仕える人のことです。教会の働き手は、どのようなことをするのでしょうか。キリストの苦しみの欠けたところをともにすることです。キリストの苦しみの欠けたところとは何でしょうか。

第一に、福音伝道の務めを担うことです。福音は世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきた奥義です。今は神の聖徒たちに明らかにされ、私たちにも明らかにされました。この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、知らせるのです。伝えることには困難さもありますが、異邦人にキリストの豊かさを知らせることは、キリストの苦しみの欠けたところを担うことになります。

第二に、すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせることです。成熟した者とは、キリストの姿に似せられた者のことを意味します。罪なる人を成熟した者として立てるためには、どれほど多くの産みの苦しみを経なければならないでしょうか。しかし、パウロは彼らのために受ける苦しみを、喜びとすると言います。喜んで、キリストの体、すなわち教会のために、自分の身をもって満たしていると言います。

第三に、神の奥義であるキリストを知るようになるためです(2:1-2)。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。キリストを深く悟り知ると、豊かな恵みを受け、福音信仰に立って、秩序ある生活を送れます。愛のうちに結び合わされます。パウロは喜んで、このキリストの欠けた苦しみを自身のからだで満たそうとします。それだけではなく、その中で働かれる聖霊に従い、力を尽くして、御業に仕えました。福音に仕える者として、教会に仕える者として、パウロはキリストとそのからである教会のために、力を尽くすほどに忠実でした。



適用:苦しみを避けていないでしょうか

一言:苦しみとともにしよう


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