聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2004年 04月 05日 (月)

Ⅰコリント15:1-4
よみがえられた

Ⅰ.それによって(1,2)
 コリントの聖徒たちは使徒パウロが宣べ伝えた福音を受け入れ、それによって立っていました。しかし時が流れるに従って世の誘惑と現実的な苦難によって、最初に受け入れた福音をしっかりと保つことができませんでした。パウロはこのような彼らに自分が宣べ伝えた福音を知らせました。なぜなら彼らがこの福音をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるからです。
Ⅱ.よみがえられた(3,4)
 パウロはコリントの聖徒たちに自分が受けたその福音をそのまま宣べ伝えました。その福音とは、聖書の示すとおりにキリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたことです(3,4)。キリストの死とよみがえりは神様の救いの御業のクライマックスであり、人類歴史の大転換期です。キリストが死なれよみがえられたことによって、罪と死の勢力を打たれ、サタンの勢力の下でうめき苦しんでいた人々を救ってくださいました。誰でも、このキリスト・イエスを信じるなら、死の勢力に捕らえられることはないのです。永遠のいのちと平和と幸福を受けるようになるのです。罪の赦しに対する確信と神様の国に対する生ける望みを持つようになるのです。
 イエス様の死とよみがえりは偶然に起きた出来事ではありません。聖書に預言された神様の約束が成就されたのです。それで神様が約束された救いの約束も、やはり信じることができるのです。

祈り:主よ!この罪人のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたことを信じます。私はこの福音を固く信じます。

一言:キリストがよみがえられた



2004年 04月 06日 (火)

Ⅰコリント15:5-11
私にも現れてくださいました

Ⅰ.ケパに現れ(5-7)
 聖書の示す通りに死なれ、聖書の通りによみがえられたキリストはケパに現れ、それから十二弟子に現れました。その後五百人以上の兄弟たちに同時に現れましたが、その中の大多数の者は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブと、使徒たち全部に現れました。それ以後彼らの人生は変わりました。不信と懐疑に捕らえられた人々が確信を持つようになり、恐れと不安に捕らえられた人々が勇気を持つようになり、彼らの利己的な人生が献身的な人生に変わりました。彼らの人生がなぜこのように変わったのでしょうか。イエス様の復活を目の当たりにしたからです。
Ⅱ.私にも現れてくださいました(8-11)
 よみがえられたイエス様は、最後に、月足らずで生まれた者と同様なパウロにも現れてくださいました。過去彼は神様の教会を迫害した福音の敵であり、罪人の中のかしらでした。しかしよみがえられたイエス様は彼にも訪ねて来られ、それによって彼の人生は完全に変わりました。これは神様の大きな恵みでした。彼はこの恵みをむだにしないために、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。よみがえられたキリストは迫害者パウロを復活の証人として変えてくださいました。一人の変えられた生活は、キリストの復活が確実なものであることを現す最も良い証拠です。自分のような罪人がこの時代で復活の証人として生きていることも、キリストがよみがえられたという決定的な証拠なのです。

祈り:主よ!私のような罪人にも訪ねて来られ、新しい人に変えてくださったことを感謝します。私も生涯復活の証人として行きます。

一言:私も復活の証人!



2004年 04月 07日 (水)

Ⅰコリント15:12-19
もしキリストがよみがえらなかったのなら

Ⅰ.今もなお、自分の罪の中にいるのです(12-18)
 キリストが死者の中から復活されたと宣べ伝えられているのに、これを否定する人たちがいました。もし彼らの主張通りに死者の復活がなかったとしたら、深刻な問題が発生するようになるのです。私たちの宣教や私たちの信仰は実質のないものになってしまいます。私たちが宣べ伝えていることは、キリストが私たちの罪のために十字架で死なれよみがえったことでいのちの主になられたということです。ところがキリストが復活しなかったのなら、イエス様がいのちの主であるという根拠はなくなります。また私たちは神様について偽証した者になってしまうのです。何より私たちはいつまでも罪の中にいることになります。罪の問題はイエス様の十字架と復活を通してのみ解決されるからです。
Ⅱ.一番哀れな者になります(19)
 この世に望みを置いている人々は、もう少し楽に生き、もう少し楽しもうとします。しかし私たちクリスチャンは復活の望みがあるので、キリストのためにすべてのものを犠牲にして、キリストの苦難に参加します。福音の御業のために時間とお金と青春をささげるのです。ところがキリストの復活がないのなら、このようなすべての犠牲が実質のないもので終わってしまうのです。すなわち私たちはすべての人の中で一番哀れな者になってしまうのです。
 しかしキリストがよみがえられたので、私たちの宣べ伝えることや信仰はむなしいものではありません。私たちの罪の問題がすべて解決されました。それで私たちは世の中でもっとも栄光あり幸せな者なのです。

祈り:主よ!キリストが再びよみがえられたことで、復活の望みを強くし、私たちの献身を意味のあるものにしてくださり感謝します。

一言:幸せな理由



2004年 04月 08日 (木)

Ⅰコリント15:20-28
初穂

Ⅰ.初穂であるキリスト(20-23)
 人々が何と言おうと、キリストは死者の中からよみがえられました。「初穂」はその次に続けてどんな実を結ぶのかを見せてくれるものです。キリストがよみがえられ、眠った者の初穂になられたことは、私たちも将来イエス様のようによみがえることを教えてくれるのです。「人は死ぬと、どのようによみがえるのか」と尋ねる人もいます。しかし死は人によるものなので、死者の復活も人によるものは当然のことなのです。アダムは神様に聞き従わなかったことで、すべての人々に罪と死をもたらしました。しかしキリストが神様に聞き従われ、私たちの代わりに十字架で死なれたことによって罪の赦しといのちをくださいました。このイエス様を信じるなら、罪の赦しを受け、永遠のいのちを得て、復活の初穂であるキリストにつながってよみがえるようになるのです。それで私たちは誰の中にあるのか、すなわち誰に治められているのかが、大変重要なことなのです。アダムの中にいれば死ですが、キリストの中にいればいのちを得るのです。
Ⅱ.万物の主キリスト(24-28)
 よみがえられたイエス様は神の御国に上って行かれましたが、時になると再び来られて、あらゆる支配、あらゆる権威、権力を滅ぼされ、国を父なる神様にお渡しになります。このイエス様は人類最大の敵である死までも滅ぼされるのです。死でさえも、再臨される主には何でもないのです。再臨される主は万物の主として永遠に万物を治められるのです。

祈り:主よ!死者の中からよみがえられ、初穂になられたことを信じます。私がこのイエス様に治められ、永遠のいのちを受けます。

一言:初穂キリスト



2004年 04月 09日 (金)

Ⅰコリント一15:29-34
毎日が死の連続です

Ⅰ.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは復活信仰があるので多くの苦難と危険の中でも福音を宣べ伝えることができました。彼の人生は一言で「毎日が死の連続」でした。彼はキリストに従うために日々自分を捨てました。安逸に生きようとする肉の欲望と世の栄光を求めようとする欲を退けました。彼はこの世でいくらでも認められ、よく過ごすことができたので、誘惑はさらに大きなものでした。しかし彼には復活の望みがあったので、このような誘惑に勝つことができたのです。むしろ主と福音の御業のために、日々さらに積極的に献身することができました。復活の望みに従って生きることは現実逃避の生活ではなく、苦難と犠牲を払ってでも担う積極的な生活なのです。
Ⅱ.罪をやめなさい(32-34)
 復活の望みがない者の生活は虚無主義に基づいた快楽主義です。私たちの人生が今日で終わってしまったり、この世で終わってしまうのであれば、虚しいものになるしかないのです。この虚しさを紛らわすために、快楽に身をゆだねずにはいられないのです。復活信仰がなければ、この虚しさと快楽に勝つことができません。しかし私たちには永遠の神の御国が待っているのです。復活の望みで生きることは、この神の御国を望みながら生きることなのです。復活の望みがある者はしばらくの間生きるこの世に未練をおかず、むしろ目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめるのです。

祈り:主よ!私がこの世の虚無主義と快楽主義にだまされずに、目をさまして正しい生活ができるように助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2004年 04月 10日 (土)

Ⅰコリント15:35-49
復活の栄光

Ⅰ.栄光あるものによみがえらされ(35-44)
 人々は復活を否定するために、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と尋ねます。「よみがえるために、何のために死ぬのか。」とも尋ねます。しかし地にまかれた種は死ななければよみがえらないように、私たちも死ねばよみがえるのです。死は終わりではなく復活の始めなのです。
 地にまかれた種は多くの種類の花を咲かせます。また種は黒い粒に過ぎませんが、その種から咲く花はその種とは比べ物にならないほど美しいものです。死者の復活もこれと同様なのです。よみがえる時、私たちは今のからだとは比べられない栄光ある体によみがえるのです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。私たちがからだを惜しまず、いのちを惜しまないのも、この望みがあるからなのです。
Ⅱ.天上のかたちをも持つのです(45-49)
 私たちはアダムの子孫として土で造られた者に似ています。しかしその日にはイエス様によって天から出た者に似るようになるのです。イエス・キリストのように御霊のからだを着て、永遠に主とともに生きるようになるのです。一言で復活の日には私たちの姿、すなわち内面までも別人に変わるのです。

祈り:主よ!卑しく醜いこの体が将来栄光ある体、聖なる形になることを感謝します。この栄光を慕い求めて生きます。

一言:栄光ある姿



2004年 04月 11日 (日)

Ⅰコリント15:50-58
励みなさい

Ⅰ.死よ(50-57)
 朽ちるものは朽ちないものを相続できず、血肉のからだは神の国を相続できません。それで私たちは終わりのラッパが鳴った瞬間、一瞬のうちに変えられるのです。「終わりのラッパ」はイエス様が再臨される時、鳴り響くのです。イエス様が再臨されれば、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。その時私たちは必ず朽ちないもの、不死を着るようになるのです。この朽ちるものが朽ちないものを着る時には、「死は勝利にのまれた」としるされている御言葉が実現するのです。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)
 今まで死は全ての人類の上に君臨し、支配して来ました。しかしキリストが再び来られるその日には死の力は滅ぼされてしまうのです。それで死と律法もその力をなくしてしまうのです。
Ⅱ.ですから(58)
 主の御業を熱心にしても無駄になったという被害意識に陥る人は意外に多いのです。しかし私たちの主は死者の中からよみがえられ、将来この地に来られるのです。その日私たちは朽ちず不死の体を着て永遠に天の国に住むようになるのです。私たちの労苦は主にあって決してむだではありません。ですから私たちは堅く立って、動かされることなく主のわざに励まなければならないのです。

祈り:主よ!死の勢力を滅ぼし、万物の王になられたイエス・キリストを賛美します。この主を信じてさらに主のわざに励みます。

一言:主のわざに励みなさい


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