聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2007年 04月 02日 (月)

ヨハネ19:23-30
十字架につけられたイエス様

Ⅰ.十字架につけられたイエス様(19-23)
 罪のないイエス様はむち打たれ、いばらで裂かれました(19:1)。死刑場につれて行かれ、十字架につけられました(19)。十字架につけられ、死なれるイエス様の苦痛を想像してみましょう(詩22:14,15)。
 では、なぜ罪のないイエス様がこのような苦痛を受けられたのでしょうか。イエス様はその体で世の罪を背負われたのです(Ⅰペテ2:34)。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです(ガラ3:13,イザ53:4-6)。
Ⅱ.「完了した」と言われたイエス様(28-30)
 十字架の苦痛が頂点に達した時、イエス様は全てのことがみな完了したのを知って、聖書の御言葉を成就させるために、「わたしは渇く。」と言われました。イエス様は最後の瞬間までも、渾身をこめて、御言葉に聞き従われました(28)。
 そしてイエス様が息を引き取る直前に「完了した。」と言われました。この御言葉には「みな返済した。」という意味があります。イエス様が私たちの罪の代価をみな支払われ、救いの御業を完成させたという意味です。こうして私たちの罪はきよく赦され、完全な救いを受けるようになったのです(ロマ3:25,エレ31:34)。

祈り:主よ!この虫けら同然の罪人のために主が十字架につけられ死なれた大きな愛に感激します。私が主の恵みを少しでも担うことができるように助けてください。

一言:御子の御体、私のために



2007年 04月 03日 (火)

ヨハネ20:1-9
空の墓

Ⅰ.空の墓(1-7)
 週の初めの日に、マグダラのマリヤはイエス様の墓が空になっているのを発見しました(1)。ペテロとヨハネも空の墓、そして死体を包んでいた亜麻布と頭に巻かれていた布切れが他の場所に置いてあるのを発見しました(7)。
 これはイエス様がご自身の復活を知らせるために残して置いた唯一の証拠です。イエス様の死体を誰かが盗んでいったのであれば、なぜ亜麻布をほどいていたのか、頭の布切れはなぜ巻かれたままになっていたのでしょうか。それで空の墓はイエス様の復活を証しする重要な場所なのです。
Ⅱ.復活を信じる二人の弟子(8,9)
 ペテロとヨハネは空の墓、亜麻布、頭の布切れを見て、イエス様の復活を信じました(8)。誰かが死体を盗んでいったのではなく、主が再びよみがえられたという歴史的な事実を信じるようになったのです。彼らの信仰は聖書の御言葉に基づいたものではありませんでした(9)。またイエス様がどんな体でよみがえったのかも分かりませんでした。しかし歴史的なできごととして、イエス様の復活を信じました。
 この信仰は大変貴い信仰です。なぜなら復活の歴史性の上に私たちクリスチャンの復活も、神様の御国も建てられているからです。イエス様の復活は作り出されたものではなく、歴史的な事実なのです。

祈り:主よ!主がよみがえられたことを信じます。主が初穂としてよみがえられましたので、私も再びよみがえり、永遠の神様の御国に導かれることを確信します。

一言:復活は歴史的な事実だ



2007年 04月 04日 (水)

ヨハネ20:10-18
マリヤに現れたイエス様

Ⅰ.なぜ泣いているのですか(10-15)
 マリヤが墓の外で泣いている理由は何でしょうか。イエス様の死体がなくなっていたからです(13)。マリヤはよみがえられたイエス様を見ても、園の管理人だと思いました。これは悲しみの涙が彼女の目をさえぎったからです。
 マリヤのこの悲しみはイエス様のよみがえりを信じることができないところから出て来たものです。イエス様のよみがえりがなければ、イエス様の生涯は人類史上最も大きな悲劇であるとしか言いようがありません。この主を信じてついていく者も、最も悲しい者になります。主を愛し、忠実でありながらも、悲しくなるのは復活信仰がないからです。
Ⅱ.「マリヤ」と言われたイエス様(16-18)
 よみがえられたイエス様はマリヤの名前を呼ばれました(16a)。この御声は牧者の御声であり、変わらない愛の御声でした。この御声を聞いて、マリヤはようやくイエス様の復活を信じるようになりました。イエス様の復活を信じるようになったマリヤは、喜びのあまり、「先生!」と言いながら、すがりつこうとしました(16b)。
 しかしイエス様は「すがりついてはいけない」と言われました。それはマリヤがよみがえられたイエス様と御霊の交わりを持つようになるためであり、復活の証人として生きるように助けるためでした(17)。

祈り:主よ!私に復活信仰がなく、主について生きようとしながらも、心の中に悲しみが残っていたことを悟り、悔い改めます。私は積極的に復活の証人として生きます。

一言:なぜ泣いているのですか



2007年 04月 05日 (木)

ヨハネ20:19-23
弟子たちに尋ねて来られたイエス様

Ⅰ.平安の王イエス様(19-20)
 イエス様は戸がしめてあった所に入って来られました(19)。イエス様は霊の体でよみがえられたため、時間と空間の制約を受けませんでした。またよみがえられたイエス様は十字架の痕跡を持っておられる方です。イエス様は永遠に生きておられ、私たちのなだめの供え物となってくださっています(Ⅰヨハ2:2)。
 またイエス様は恐れにとらわれている弟子たちに平安を贈り物としてくださいました。イエス様が与えられる平安は永遠の平安です。神様と和解する時に来る霊的な平安であり、たましいの本当の平安です。イエス様は平安の王です。
Ⅱ.弟子たちを遣わされたイエス様(21-23)
 イエス様は復活を信じ喜ぶ弟子たちに使命をくださいました。神様がイエス様をこの地に遣わされたように、イエス様も弟子たちをこの世に遣わされました(21)。
 イエス様は弟子たちが聖霊の力を受け、赦しの福音を証しする者として遣わされました(22,23)。この御業は五旬節に聖霊が臨まれることで成し遂げられました。五旬節の時、弟子たちは初めてイエス様の十字架の死と復活の意味を悟り、大胆に十字架と復活の福音を証しするようになりました。

祈り:主よ!主がよみがえられたことで、この罪人の心に平安をくださり感謝します。私も世の中に出て行って、大胆に主の福音を証しします。

一言:平安の王イエス様



2007年 04月 06日 (金)

ヨハネ20:24-29
トマスに訪ねて来られたイエス様

Ⅰ.復活信仰を植えてくださったイエス様(24-28)
 イエス様はトマスがサタンの植えた疑いによって、多くの苦しみを受けているのを知っておられ、彼に訪ねて来られました。そして手を伸ばして、よみがえられたイエス様の手とわきに差し入れ、信じる者になるように、言われました(27)。
 その時、トマスは自分の不信仰を悔い改め、信仰を告白しました(28)。イエス様は疑いの多いトマスを放棄せずに、最後まで愛で抱いてくださり、復活信仰を植えてくださいました。イエス様は、私たちが合理的、論理的な考えの奴隷になる時、最も悲しまれ、信じる者になることを願われます。
Ⅱ.見ずに信じる者は幸いです(29)
 イエス様は、見て信じたトマスに、見ずに信じる者は幸いです、と言われました。私たちが正しい信仰生活をするためには、見ずに信じる信仰がなければなりません。罪の赦し、イエス様の再臨、神様の御国、私たちの体のよみがえりなど、見ることができないものがあまりにも多くあります。
 それで「見なければ信じない」と頑固になる者たちは、目に見えない神様と神様の御国が存在することを悟ることができません。見なくても、御言葉だけを聞いて信じる信仰が最も祝福された信仰です。見ずに信じる信仰はイエス様自体を信じる成熟した信仰です。

祈り:主よ!トマスのように疑い深い私を最後まで愛で抱いてくださり、復活信仰を植えつけてくださり感謝します。私は合理的な考えを捨て、御言葉を単純に受け入れます。

一言:信仰は目に見えないものを確信させるもの



2007年 04月 07日 (土)

Ⅰコリント15:20-28
復活の初穂イエス様

Ⅰ.キリストの再臨の時、キリストに属している者(20-23)
 イエス様はよみがえられたことで、眠った者の初穂となりました(20)。「初穂」とはその次の実が続けて実るという予告です。イエス様の復活は復活の初穂として、全ての聖徒たちも復活することを、前もって見せてくれたできごとです。
 アダムにあってすべての人は死を味わうようになりました。しかし復活の初穂であるイエス様の中では、全ての人が生かされるようになりました(22)。おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
 それで私たちが誰に属しているのかは、大変重要なことです。キリストに人格的に属した者はキリストと共に復活の栄光に参加するようになります。しかし教会の職分や交わり、自分の栄光に属しているなら、キリストの再臨の時、落ちて行くしかありません。
Ⅱ.死からの勝利(24-28)
 今まで、人間を最後まで徹底的に支配して来たものは死でした。死の力の前では人間は本当に無力でした。しかしイエス様がよみがえられたことで、これ以上死の力が私たちを支配することはできません。イエス様はよみがえられたことで、万軍の王となり、万物を回復させてくださったのです(27,28)。

祈り:主よ!主がよみがえられたことで、私もよみがえるようになることを信じます。また万物を回復され、永遠に治められる主を仰ぎ見て、今日も信仰によって生きます。

一言:キリストに属する者



2007年 04月 08日 (日)

マタイ28:16-20
あらゆる国の人々を弟子としなさい

Ⅰ.あらゆる国の人々を弟子としなさい(16-19)
 イエス様が天に昇られる時にも、弟子たちの中で、疑う者たちがいました。イエス様は弱い弟子たちに、ご自分が天においても、地においても、いっさいの権威が与えられていることを証されました(18)。そして弟子たちがこの世で担うべき使命をお与えになりました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(19)。
 イエス様がお与えになった使命は弟子養成です。あらゆる国の人々にイエス様の十字架と復活の福音を教え、救いを得させ、聞き従う弟子の生活を生きさせるように命じられました。イエス様の再臨を待つ聖徒たちの第一の使命は、まさに弟子養成です。それも、一つの国ではなく、すべての国の人々を弟子にすることです。
Ⅱ.世の終わりまで、あなたがたとともにいます(20)
 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」イエス様は弱い弟子たちが自分の力では世界宣教の使命を担うことができないことを知っておられました。それで世の終わり、すなわちイエス様が再び来られるその日まで、弱い弟子たちと、いつも、ともにいてくださり、助けてくださると約束されました。
 弱い人々に天と地の権威であるイエス様が共にいてくださるという約束より、大きな祝福はありません。

祈り:主よ!よみがえられた主は天と地の全ての権威を持っておられる方です。私は主がくださった世界宣教の命令に服従します。この弱い私とともにいてください。

一言:すべての国の人々を弟子としなさい



2007年 04月 09日 (月)

ルカ9:18-27
あなたがたは、わたしをだれだと言いますか

Ⅰ.神様のキリストであるイエス様(18-22)
 イエス様は祈られてから、弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられました。その時、ペテロは「神のキリストです。」と答えました(20)。群衆はイエス様を断片的に、また人間的な次元からしか知りませんでしたが、ペテロはイエス様を正確に知り、告白しました。
 「神のキリスト」とは神様が約束されたメシヤを意味します。イエス様は神様のキリストとして、神様が人々に約束された救いを成し遂げるために、多くの苦難を受け、捨てられ、殺されました。そして三日目によみがえられました(22)。私たちがイエス様をキリストとして告白する時、救いを得るようになり(ロマ10:9)、イエス様が私たちの主となり、私たちの人生を導いてくださいます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いに、どのように答えるのかが、大切なのです。
Ⅱ.弟子の道(23-27)
 イエス様について行く者は、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、イエス様について行かなければなりません(23)。これは負担で、険しいことのように思えます。しかしこのような姿勢でイエス様について行かなければ、全世界よりも尊いいのちを、罪深くむなしいものに奪われてしまいます。十字架の道がいのちの道です(24,25)。

祈り:主よ!主は神のキリストです。私は日々自分を捨て、自分の十字架を負って主について行きます。

一言:自分のいのちを失う者は、それを救うのです。


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