聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2008年 03月 24日 (月)

Ⅰコリント15:1-4
イースター(1)

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」(3)
Ⅰ.この福音によって救われるのです(1-2)
 コリント教会の聖徒たちは、使徒パウロの伝えた福音を受け入れ、その中に立っていました。しかし歳月が流れると、世の誘惑と現実の苦難のために、最初に受けた福音を堅く守ることができませんでした。パウロはこのような彼らにもう一度福音を思い起こさせました。「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(2)。私たちは恵みによって福音を受け入れました。この福音はすべての信じる者を救いに至らせる神様の力です(ロマ1:16)。それで私たちはこの福音をむだに信じるのではなく、しっかりと保っていなければなりません。
Ⅱ.私たちの罪のために死なれ(3-4)
 パウロは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」と証ししています。キリストの死と復活は神様の救いの御業の絶頂であり、人類の歴史の大転換です。キリストが死なれよみがえられたことで、罪と死の勢力を打ち砕き、サタンの支配の下で苦しみあえいでいた人々を救ってくださいました。誰でもこのイエス様を信じるなら、死の勢力に苦しめられることはありません。永遠のいのちと平和と幸福を受けます。罪の赦しに対する確信と神様の御国に対する生ける望みを持ちます。
 ところがイエス様の死と復活は、それこそ偶然に起きたできごとではありません。聖書に預言された神様の約束が成就されたものです。それで神様が約束された救いの約束は信頼できる約束です。

祈り:主よ!私のために十字架で死なれ、よみがえられたことを信じ、感謝します。私がこの福音をしっかりと保ちます。

一言:私のために死なれ、よみがえられたキリスト



2008年 03月 25日 (火)

Ⅰコリント15:5-11
イースター(2)

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(8)
Ⅰ.十二弟子に現れたこと(5-7)
 使徒パウロは、キリストの復活が確かなものであることを証しするために、その証人たちをあげました。よみがえられたイエス様はまず最初にケパ、すなわちペテロに現れ、その後には十二弟子に現れました。そして五百人以上の兄弟たちに同時に現れましたが、その中の大多数の者は今なお生きていました。その後主の兄弟のヤコブと全ての使徒たちに現れました。彼らはみなイエス様のよみがえりを見て、彼らの人生が変わりました。恐れおののいていた者が勇気ある者に、利己的な者が犠牲する者に、小市民的な者が霊的な指導者であり歴史の創造者に変わりました。
Ⅱ.私にも現れました(8-11)
 よみがえられたキリストは最後に月足らずで生まれた者と同様なパウロにも現れました。過去彼は神様の教会を迫害した福音の敵であり、罪人のかしらでした。しかしよみがえられた主が彼に訪ねて来られ、それによって人生は完全に変わりました。これは、月足らずで生まれたような、足りない者に臨む神様の大きな恵みでした。パウロはこの恵みに感激しました。そしてこの恵みを無駄なものにしないために、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました(10)。よみがえられたキリストは迫害する者パウロを復活の証人に変えてくださいました。一人の変えられた人生は、キリストの復活が確かなものであることを現す、最も良い証しです。

祈り:主よ!私のような者にも訪ねて来られ、新しい人に変えてくださったことを感謝します。私も生涯復活の証人として生きます。

一言:私も復活の証人



2008年 03月 26日 (水)

Ⅰコリント15:12-19
イースター(3)

「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(13)
Ⅰ.もし、死者の復活がないなら(12-16)
 当時、ギリシャ哲学、特に二元論者の影響を受け、たましいの不滅は信じましたが、肉体は悪いものだと言って、肉体の復活を信じない異邦人の信者たちがいました。しかし死者の復活がなければどうなるのでしょうか。キリストも復活されなかったことでしょう(13,16)。キリストは私たちと同じ肉体を着て、この地に来られました。神様がこのようなキリストを再びよみがえらせることは、死者の復活があることを指しています(15)。今日でもクリスチャンと言いながら、死者の復活を信じない人々がいます。彼らは世を愛します。信仰を現実的な成功と成就するための道具であり手段として考えます。彼らの内面には本当の望みがありません。否定的で運命的です。
Ⅱ.キリストがよみがえらなかったなら(17-19)
 キリストの復活がなければ、私たちの信仰はむなしく、私たちは罪の赦しを受けることができず、今なお自分の罪の中にいます(17)。永遠のいのちの望みもありません(18)。福音の証人たちは嘘つきになり、キリストのために殉教した人々はみな滅ぶようになります。特に偽りの望みにだまされて労苦し、献身して生きる聖徒たちは、すべての人の中で一番憐れな者です。
 しかしイエス様は聖書に示す通りに死者の中からよみがえられました。今も数多くの人々が復活の福音を信じて生かされ、罪の赦しの恵みを受け、復活の生ける望みの中に生きています。

祈り:主がよみがえられたので、私たちにとって本当の望みになります。この望みの中で、聖なる巡礼者の道を歩みます。

一言:最も憐れな者は復活信仰がないクリスチャン



2008年 03月 27日 (木)

Ⅰコリント15:20-28
イースター(4)

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20)
Ⅰ.初穂キリスト(20-23)
 今やキリストは死者の中からよみがえられ、眠った者の初穂になられました。「初穂」とはこれから収穫する実がどんなものであるのかを示してくれます。キリストがよみがえられ初穂になられたことは、私たちも将来イエス様のようによみがえることを教えてくれます。ある人は、「人がどのようにして死んで、もう一度よみがえることができるのか。」と聞きます。しかし死が人によるものなので、死者の復活も人によるものであるのは当然のことです。アダムは神様に不従順であり、全ての人に罪と死をもたらしました。しかしキリストは神様に聞き従い、私たちの代わりに十字架で死なれました。このイエス様を信じるならば、私たちは罪の赦しを得て、永遠のいのちを受け、復活の初穂であるキリストに従ってよみがえるようになります。それで私たちは誰の中にいるのか、すなわち誰の支配を受けているのかが、たいへん重要なことです。アダムの中にいれば死であり、キリストの中にいるなら永遠のいのちを得ます。
Ⅱ.万物の主キリスト(24-28)
 復活の順番は、初穂であるキリスト、次には、キリストが再臨される時、キリストにつながった者、すなわちクリスチャンです。その後に、イエス様はあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼされます。そして最後には人間の最大の敵である死までも滅ぼされます。その時、イエス様は万物の主として、永遠に万物を治めます。

祈り:主よ!死者の中からよみがえられ、初穂となられたことを感謝します。私もイエス様のように永遠のいのちを得ることを願います。

一言:初穂キリスト



2008年 03月 28日 (金)

Ⅰコリント15:29-34
イースター(5)

「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」(30)
Ⅰ.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは今復活信仰の中で生きている人がどんな生活をしなければならないのかを、自分の生活をたとえて勧めます。パウロは復活の望みがあったため、多くの危険の中でも福音を伝えることができました。一言で、彼は毎日が死の連続でした(31)。これは、毎日死を味わう苦難を受けている、という意味です。彼はキリストに従うために、日々自分を捨てました。彼は安逸に生きようとする肉体の欲望と、世の栄光を求めようとする心を捨てました。彼はこの世でいくらでも認められ、生活することができました。しかし彼には復活の望みがあったため、この世で自分を犠牲にすることができました。復活の望みの中で生きる生活は、逃避する生活ではなく、苦難と犠牲を喜んで担う生活です。
Ⅱ.目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめさない(32-34)
 復活の望みがない人々の生活はどうでしょうか。彼らは「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言います(32)。このような生活は退廃的で、むなしい生活です。この世で生きることで、全てのことが終るのであれば、できる限り楽しんで生きることが、賢明な生き方です。しかしこの世での生活はむしろほんのつかの間です。復活の望みの中で生きる人々は神様の御国での永遠の生活を得るために、あっという間に過ぎ去るこの世で目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめます。

祈り:主よ!私に復活の望みをくださり感謝します。私が快楽主義者たちにだまされず、目を覚まし、正しい生活を送るように、助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2008年 03月 29日 (土)

Ⅰコリント15:35-49
イースター(6)

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(44)
 昔も今も、人々は復活の体を今のもののように考える傾向にあります。果たして私たちがよみがえる時の姿はどうなのでしょうか。パウロは種のたとえでこれを説明します。地に蒔かれた種は死ねばよみがえります。ある人は、「よみがえるなら、何のために死ぬのか。」と質問します。しかしよみがえるためには、私たちが必ず死ななければなりません。死は終わりではなく、よみがえりの前提です。
 また、おのおのの種はさまざまな形の花として咲きます。種は小さい物体に過ぎませんが、その種から出て来る花はその種とは比べものにならないくらいに美しいものです。種の姿と、そこから咲く花の姿はそのように違います。今の私たちの体は種粒に過ぎません。しかしこの朽ちる体が蒔かれると、朽ちないものによみがえらされます。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされます。一言で「五欲七情」と「生老病死」に苦しめられる卑しい体ではなく、御霊に属する体によみがえらされるようになります。死ぬ体ではなく、もはや死ぬことのない体としてよみがえらされます。
 私たちはアダムの子孫として、土から出て、土に属する体を着ていますが、その日にはイエス様によって天に属する者の体を着るようになります。イエス・キリストと共に御霊に属する体を着て、永遠に主と共に生きるようになります。

祈り:主よ!醜く卑しく弱いこの体が、将来それほどまでに栄光ある体を着るようになるとは、私はこの栄光を慕い求めて、復活の望みの中に生きます。

一言:天に属する者の体



2008年 03月 30日 (日)

Ⅰコリント15:50-58
イースター(7)

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(57)
Ⅰ.死よ、おまえの勝利はどこにあるのか(50-17)
 今まで、死が全人類の上に君臨して来ました。人々は死ぬことを恐れ、どうすることもできずに、卑しく罪深い生活をし、死なないように地団駄を踏みましたが、結局は死ぬしかありませんでした。しかしその日、キリストが再び来られる日には、死の力は滅ぼされてしまいます。従って、罪と律法もその力を失ってしまいます。
 今、パウロは復活信仰に満たされて、死に対する勝利を叫んでいます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。この信仰を持った人は決して死を恐れません。
Ⅱ.主のわざに励みなさい(58)
 この世は、私たち聖徒たちを、さまざまなかたちで誘惑します。このような誘惑の前で、復活信仰が動かされ、虚しいものを追ってしまいがちです。将来に対する恐れのために、自分のことだけに熱心になり、主の御業にはあまり励まなくなったりもします。しかしこの世はしばらくの間だけで、この世の全てのものは結局は虚しいものになってしまいます。永遠の天の御国に持って行けるものは、主に対する信仰と愛だけです。それでこの世で虚しくないものは主の御業だけです。復活信仰の上に堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励む者にならなければなりません。

祈り:主よ!死の力を打ち砕き、最後の勝利をくださることを信じて感謝します。私がさらに主のわざに励む者になります。

一言:勝利をくださる主


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