聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2009年 04月 06日 (月)

Ⅰコリント15:1-11
聖書に従ってよみがえられたイエス様

Ⅰ.私たちの罪のために死なれたイエス様(1-3)
 もし私たちが復活を固く信じ、虚しく信じなければ、これによって救いを受けるのです。私たちはどの時代、どんな状況であっても、またどんな問題にぶつかっても、福音を固く守らなければなりません。そうすれば私たちに光が照らされ、いのちが臨みます。
 では、福音とは何でしょうか。キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたことです。人は誰でも皆罪人であり、そのため死の刑罰を免れることはできません。罪によってサタンの奴隷になりました。ところがキリストが死んで再びよみがえられたことで、ここに救いがあるのです。
Ⅱ.聖書に従って三日目によみがえられたイエス様(4-11)
 よみがえられたイエス様は首席弟子ケパに現われ、十二弟子と他の多くの弟子たちに現われました。そしてイエス様のよみがえりを信じることで、ケパは生まれ変わりました。他の人々も生まれ変わりました。
 イエス様が死者の中からよみがえられたことによって、肉に属していた者が霊に属する者になり、霊的な権威とキリストの愛を持った驚くべき人になるのです。これが実質的な復活の御業です。迫害者サウルが使徒パウロになりました(8)。

祈り:主よ!私たちが受難と復活の週に、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたこと、を再びかたくつかみます。

一言:死んでよみがえられたイエス様



2009年 04月 07日 (火)

Ⅰコリント15:12-19
死者の復活がなければ

Ⅰ.死者の復活がないと言っている人たちの問題
 彼らは現実的です。彼らにはこの地のこと、目に見えることだけが人生のすべてです。霊的な世界を信じず、死んだ後のことを認めません。それで今犠牲することを嫌います。この地でよく生きようと争い戦います。その心はけちくさいのです。
 また彼らはサドカイ人のように(マコ12:18-23)、理想的でかたく、イエス様の御言葉を受け入れません。死んだ者を生き返らせる神様を信じず、人間の限界から抜け出すことができません。不可能に挑戦できず、心に不平が満ちるのです。
Ⅱ.死者の復活がないと言っている人たちの矛盾(12-19)
 ところが、彼らはイエス様の復活を信じ、罪の赦しも信じています。ところが死者の復活がなければ、イエス様もよみがえることができません。イエス様がよみがえらなかったのなら、信仰も虚しく、罪の赦しもありません。使徒たちは偽証する者になるのです(15)。
 またキリストを信じ、その信仰のために殉教したり、羊たちのために自分を捨てた牧者たちはもっとも憐れな者になるのです。しかし御業を見れば、殉教者たちは復活を仰ぎ見て、栄光の中で死んだのです。

祈り:主よ!死者の復活があることを信じます。そして今キリストのように犠牲し、牧者として生きます。

一言:死者はよみがえる。



2009年 04月 08日 (水)

Ⅰコリント15:20-28
死者の復活はある

Ⅰ.死も滅ぼされます(20-26)
 死は人を通して来たように、死者の復活も人を通して来たのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるのです。そのことがいつ起きるのでしょうか。
 終末の時に、そのようなことが起こるのです(24)。人類の歴史は永遠のものではありません。必ず終末が来るのです。その時は、キリストがあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様にお渡しになるのです。その時すべての敵がキリストに服従しますが、一番最後に滅ぼされる敵は死です。そしていのちだけがあるようになるのです。そうしてその時は死による恐れと悲しみは、もはやありません。
Ⅱ.神様が万物の主になられます(27,28)
 万物をキリストに服従させたその時には、キリストご自身も神様に服従するようになります。これは神様が万物の主として、すべてにおいてすべてとなられるためです。
 今は世の中が傲慢で、神様があがめられずにいます。人々は、神はいない、とさえ言います。しかし時になると、神様の栄光が全宇宙に現われ、全てが神様の御前にひざまづいて、主をあがめるようになるのです。その時を仰ぎ見ます。

祈り:主よ!神様が万物の主となる、その日を仰ぎ見て、今の全ての苦しみに打ち勝ち、痛みを担います。

一言:その日を仰ぎ見ます



2009年 04月 09日 (木)

Ⅰコリント15:29-34
毎日が死の連続です

Ⅰ.使徒パウロの生活(30,31)
 彼は自分の生活をこのように言いました。「毎日が死の連続です。」彼は日々自分を捨てました。自分を死の中にさらけ出しました。イエス・キリストの十字架の死と復活の福音を伝えるために、全ての逆境を乗り越えました。また羊たちを助け、仕えるために、日々自分を捨て、キリストの愛を実践しました。
 それを日々行いました。日々死ぬ生活は容易なことではありません。しかし彼が日々死ぬことで、キリストの福音の力と栄光が現われ、羊たちが福音を信じて生かされました。
Ⅱ.快楽主義者たちの生活(32-34)
 快楽主義者たちは言います。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」復活を信じない人々は望みがなく、今を楽しもうとするのは当然のことです。
 しかし今飲み食いし楽しむことは、消費的なことのほかに、何もありません。人々は肉体的になり、利己的になり、愛がなくなります。神様のかたちを持った人間としての高尚さと美しさもありません。一言でこのような人は不幸な人です。

祈り:主よ!私が果たしてどんな生活をしているのでしょうか。死者の復活を信じ、日々死ぬ生活を送ります。

一言:復活の望みの中で、毎日が死の連続です



2009年 04月 10日 (金)

Ⅰコリント15:35-49
天上のからだ

 この問題に対して、使徒パウロが答えます。
Ⅰ.明らかに、今とは違う姿です(35-41)
 36,37節を見れば、私たちは、明らかに今とは違う姿でよみがえることがわかります。農夫が畑に麦を蒔きますが、そこから出て来るものは種とは全く違う麦の穂です。農夫は将来のかたちを蒔くのではなく、ただ種を蒔いたに過ぎません。
 このように私たちも、今この姿で死ねば、それは将来のかたちを蒔いたのではなく、将来のかたちのための種を蒔くのです。そしてそのからだがどんな姿であるのかは、神様がご自分の御旨に従って決定されるのです。
 神様が御旨に従って、一人一人にからだをくださるのです。
Ⅱ.天上のかたちを持つようになります(42-49)
 朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされるのです。血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。いちゃもんをつける人は、「御霊に属するからだはどこにあるのか」と質問するでしょう。しかし血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです(44)。最初の人アダムは土で造られ、血肉のからだを着ましたが、第二の人であるキリストは天から出て、御霊のからだを着たのです。それで水の上でも歩くことができるのです。私たちがそのからだを着るようになるのです(49)。

祈り:主よ!私たちが天で肉の体を脱いで、御霊のからだを着るようになることに驚きます。そのからだを望み、信仰によって生きます。

一言:御霊のからだを着るのです。



2009年 04月 11日 (土)

Ⅰコリント15:50-58
栄光の勝利

Ⅰ.勝利のラッパの音(50-53)
 キリストがこの地に来られるその日に、御使いたちの勝利のラッパが鳴り響きます。その音は全地に鳴り響き、全ての人の耳に聞こえて来ます。勝利のラッパが聞こえて来る時に、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです(52)。
 そのラッパの音は、全ての敵を征服した勝利の栄光を知らせるものです。クリスチャンたちは、この地で時には敗北もします。それで心に大きな痛みを持つようにもなります。しかし結局私たちに勝利のラッパが鳴り響くのです。その音が聞こえませんか。
Ⅱ.死に打ち勝った(54-58)
 勝利のラッパが鳴り響く時に、死は征服されます。「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。死はもはやそのやみの力を使うことができません。同時に罪と律法も力を失います(56)。
 「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」よみがりのキリストの中で、私たちに勝利があるのです。それで私たちは堅く立って、動かされることなく、主のわざに励むようになるのです。どんな苦難も落胆することも、復活を信じる私たちを止めることはできません。

祈り:主よ!よみがえられたイエス・キリストが私たちに栄光の勝利をくださるので、さらに力を出して主のわざに励みます。

一言:栄光の勝利



2009年 04月 12日 (日)

マタイノ福音書28:1-20
よみがえりのイエス様、永遠の権威者

Ⅰ.墓でよみがえられたイエス様(1-15) 
 安息日が終わると、何人かの女たちが死んだイエス様を悲しむために、墓に行きました。ところが主の御使いがいなずまのような姿で現われ、福音を伝えました。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(6)
 女たちはこの福音を伝えようと弟子たちに走って行った時、よみがえられたイエス様がみずから女たちに現われました(9)。そしてガリラヤで弟子たちに会おうとされました。
Ⅱ.天と地のあらゆる権威を持ったイエス様(16-20)
 神様が、死に打ち勝たれ、よみがえられたイエス様に天と地のあらゆる権威をくださいました。イエス様はまるで何の権威もなく無力にも十字架につけられたようですが、天と地のあらゆる権威を持っておられました。誰もその権威に敵対することができません。
 権威者イエス様は弟子たちに世界宣教の使命をくださいます(19)。彼らがあらゆる国の人々を弟子として、教えることができるのは、イエス様がよみがえられて権威を持たれたからです。その権威に頼って弟子たちはすべての人々に御言葉を教え、聞き従わせることができるのです。弟子たちにイエス様の権威が委任されたのです。

祈り:主よ!私たちが、よみがえり天と地のあらゆる権威を持っておられるイエス様の権威に頼って、世界宣教に挑戦します。

一言:天と地のすべての権威を持たれたイエス様



2009年 04月 13日 (月)

マタイノ福音書12:22-37
聖霊に逆らうボウトクは赦されません

Ⅰ.聖霊によって悪霊を追い出すイエス様(22-30)
 イエス様は、悪霊につかれた目も見えず口のきけない人を、いやしてくださいました。群衆はこれを見て、イエス様がキリストであることを悟りました(23)。しかしパリサイ人たちはこれを見て妬み、イエス様が悪霊どものかしらゼルベブルの力で悪霊どもを追い出しているだけだ、と悪評をつきました。その時イエス様は彼らに、国も、町も、家も、内輪もめして争えば立ち行かないのに、サタンがその国を滅ぼそうとお互いに追い出して仲間割れするのかと言われます(26)。また人はまず強い者を縛らなければ、その家の家財を奪うことができないと言われます(29)。イエス様が悪霊を追い出すことができたのは、悪霊の王を縛ったからであり、それはイエス様が悪霊の王より強い方であることを証しします。イエス様が悪霊を追い出されたのは悪霊の力を借りてではなく、悪霊の王よりさらに強い神様の霊、すなわち聖霊の力を受けたからです(28)。イエス様は私たちから全ての悪霊を追い出し、私たちが完全で聖なる生活をすることができるようにしてくださるのです。
Ⅱ.聖霊に逆らうボウトクをしたパリサイ人たち(31-37)
 パリサイ人たちは聖霊の働きに対して悪評をつき、冒?しました。人の全ての罪と冒涜は赦されますが、聖霊に逆らう冒?は赦されません(32)。彼らは根本的に心が悪いので、悪い言葉を話すしかなく、聖霊までもボウトクするようになります。このような人は必ずさばきを受けるようになるのです(36,37)。
[ボウトク:冒とく、冒涜]

祈り:主よ!イエス様は悪霊を追い出す力があります。私が故意に聖霊の働きをボウトクしないように助けてください。

一言:聖霊の働きをボウトクしてはならない


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