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2010年 03月 29日 (月)

コリント人ヘノ手紙第一15:1-4
よみがえられました

Ⅰ.この福音によって(1,2)
 コリントの聖徒たちは、使徒パウロが伝えた福音を聞いて、その中に立っていました。しかし歳月が流れるにつれ、世の誘惑と現実の苦難によって、初めに受けたその福音を固くつかむことができませんでした。パウロはこのような彼らに自分が伝えたその福音を再び思い起こさせました。なぜなら彼らがこの福音を固くつかんで、しっかりと保っていれば、この福音によって救われるからです。
Ⅱ.よみがえられたこと(3,4)
 パウロはコリントの聖徒たちに自分が受けたその福音をそのまま伝えました。その福音は聖書の示すとおりに、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたことです(3,4)。キリストの死とよみがえりは神様の救いの御業の接点であり、人類の歴史の大転換点です。キリストが死なれよみがえられたことによって、罪と死の権威に打ち破り、サタンの権力の下にあえいでいる人々を救ってくださいました。誰でもこのキリスト・イエスを信じれば、死の権威に苦しめられません。永遠のいのちと平和と幸福を受けるようになります。罪の赦しに対する確信と神様の御国に対する生きる望みを持つようになります。
 イエス様の死とよみがえりは偶然起きた事件ではありません。聖書に預言された神様の約束が成就したものです。それで神様が約束された救いの約束もまた信じることができるのです。

祈り:主よ!この罪人のために十字架で死なれ三日目によみがえられたことを信じます。私がこの福音をしっかり保ちます。

一言:キリストがよみがえられました



2010年 03月 30日 (火)

コリント人ヘノ手紙第一15:5-11
私にも現れてくださいました

Ⅰ.ケパに現れ(5-7)
 聖書の示す通りに死なれ、聖書に従ってよみがえられたキリストはケパ、すなわちペテロに現れ、それから十二弟子に現れました。そして再び五百人以上の兄弟たちに同時に現れましたが、その中の大多数の者は今もなお生き残っていました。その後、ヤコブと使徒たち全部に現れました。それ以降彼らの人生は変わりました。不信と疑いに陥った者たちが確信を持つようになり、恐れと不安で震えていた彼らが勇気を持つようになり、彼らの利己的な人生が献身的な人生に変えられました。彼らの人生が、なぜ変わったのでしょうか。イエス様のよみがえりを、まじまじと見たからです。
Ⅱ.私にも現れてくださいました(8-11)
 よみがえられたイエス様は、最後に、月足らずで生まれた者と同様のパウロにも現れました。過去彼は神様の教会を迫害した福音の敵であり、罪人のかしらでした。ところがよみがえられたキリストが彼にも訪ねて来られ、それによって彼の人生は完全に変わりました。これは神様の大きな恵みです。彼はこの恵みをむだにしないために、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。よみがえられたキリストは迫害者パウロを復活の証人に変えてくださいました。一人の変えられた人生はキリストのよみがえりが確かなものであることを表す最も良い証拠です。私のような罪人が、この時代で復活の証人として生きていることも、キリストがよみがえられたことを決定づける証しです。

祈り:主よ!私のような罪人にも訪ねてこられ、新しい人になるようにしてくださり、感謝します。私も生涯復活の証人として生きます。

一言:私も復活の証人!



2010年 03月 31日 (水)

コリント人ヘノ手紙第一15:12-19
もしキリストがよみがえらなかったのなら

Ⅰ.今もなお、自分の罪の中にいるのです(12-18)
 キリストが死者の中から復活された、とはっきり宣べ伝えられているのに、これを否定する人々がいました。ところがもし彼らの主張どおり、死者の復活がなければ、深刻な問題が発生するようになります。私たちの宣教や私たちの信仰が実質のないものになってしまいます。私たちが宣べ伝えるものは、キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことでいのちの主になった、ということです。ところがキリストが再びよみがえらなければ、イエス様がいのちの主となる根拠がありません。また、私たちは神様の偽りの証人になってしまいます。何より私たちは、今もなお、自分の罪の中にいるのです。罪の問題はイエス様の十字架とよみがえりを通してのみ、解決されるからです。
Ⅱ.一番哀れな者(19)
 この世に望みを置いて生きる人々は、もっと楽に生き、もっと楽しく生きようとします。しかし私たちクリスチャンは復活の望みがあるため、キリストのためにすべてのものを犠牲にし、キリストの苦難に参加します。福音の御業のために、時間とお金と青春をささげます。ところがキリストの復活がなければ、このようなすべての犠牲が無駄に終わってしまいます。すなわち私たちは世の中で一番哀れな者になってしまうのです。しかしキリストがよみがえられたので、私たちの宣教や信仰はむなしいものにはなりません。私たちの問題がすべて解決されました。それで私たちはこの世で最も栄光あり、幸せ者です。

祈り:主よ!キリストが再びよみがえられることで、復活の望みを強くし、私たちの献身が意味あるものとなりますように。

一言:幸せな理由



2010年 04月 01日 (木)

コリント人ヘノ手紙第一15:20-28
初穂

Ⅰ.初穂となったキリスト(20-23)
 人々が何と言っても、キリストは死者の中からよみがえられ、眠った者の初穂となりました。「初穂」はその次に続き、どんな実を結ぶのかを見せてくれます。キリストがよみがえられ初穂になったことは、私たちも将来イエス様のようによみがえることを話してくれます。「人が死んで、どのようによみがえることができるのか。」という疑問もあります。しかし死が人によるものなので、死者の中のよみがえりも人によるものは当然なことです。アダムが神様に聞き従わず、すべての人に罪と死をもたらしました。しかしキリストが神様に聞き従って、私たちの代わりに十字架で死なれることで、罪の赦しと永遠のいのちをくださいました。このイエス様を信じれば、罪の赦しを受け、永遠のいのちを得て、よみがえりの初穂となったキリストに従ってよみがえるようになります。それで私たちが誰の中にいるのか、すなわち誰に治められるのかは大変大切なことです。アダムの中にいれば死ですが、イエス様の中にいればいのちを得るのです。
Ⅱ.万物の主キリスト(24-28)
 よみがえられたイエス様は神様の国に上って行かれましたが、時になると再び来られ、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様にお渡しになります。このイエス様は人類最大の敵である死までも滅ぼします。死でさえも、再臨される主には何もできません。再臨される主は万物の主として、永遠に万物を治められます。

祈り:主よ!死者の中からよみがえられ、初穂になられたことを信じます。私がこのイエス様に治められ、永遠のいのちを受けます。

一言:初穂イエス様



2010年 04月 02日 (金)

コリント人ヘノ手紙第一15:29-34
毎日が死の連続です

Ⅰ.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは復活信仰があったので、多くの苦難と危険の中でも、福音を宣べ伝えることができました。彼の人生は一言で「毎日が死の連続」でした。彼はキリストに従うために、日々自分を捨てました。安逸に生きようとする肉の望みと、世の栄光を求める欲望を捨てました。彼はこの世でいくらでも認められ、豊かに生きることができたのでさらに誘惑は大きなものでした。しかし彼には復活の望みがあったので、このような誘惑に打ち勝つことができました。むしろ主と福音の御業のために、日々さらに積極的に献身することができました。復活の望みで生きることは、現実逃避の生活ではなく、苦難と犠牲を喜んで担う積極的な生活です。
Ⅱ.罪をやめなさい(32-34)
 復活の望みがない人々の人生は虚無主義に基づいた快楽主義です。私たちの命が今日で終わったり、この世から絶たれてしまえば、虚無になるしかありません。この虚無をなくすために、快楽に身をゆだねるしかありません。復活信仰がなければ、この虚無と快楽に打ち勝つことができません。しかし私たちには永遠の神様の御国が待っています。復活の望みによって生きることは、この神様の御国を望んで生きることです。復活の望みがある者はしばらくの間この世に未練を置かず、むしろ目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめるのです。

祈り:主よ!私がこの世の虚無主義と快楽主義にだまされずに、目をさまして、正しい生活が送れるように助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2010年 04月 03日 (土)

コリント人ヘノ手紙第一15:35-49
復活の栄光

Ⅰ.栄光あるものによみがえらされ(35-44)
 人々は復活を否定するために、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と尋ねます。「よみがえるなら、何で死ぬのか。」と尋ねたりもします。しかし地にまかれた種は死ななければ生かされないように、私たちも死ねば、再びよみがえります。死は終わりではなく、復活の始まりです。地にまかれる種はさまざまなかたちの花を咲かせます。また種は黒い粒に過ぎませんが、その種から咲く花はその種とは比べものにならないほど美しいものです。死者の復活もこれと同じです。よみがえる時、私たちは今の肉体とは比べものにならないほどの栄光ある体によみがえります。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされるのです。一言で、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。私たちが体を惜しまず、いのちを惜しまないのも、この望みがあるからです。
Ⅱ.天上のかたちをも持つのです(45-49)
 私たちはアダムの子孫として、土で造られた者のかたちを持っています。しかしその日にはイエス様によって、天上のかたちを持つようになります。イエス・キリストのように御霊のからだを持ち、永遠に主と共に生きるようになるのです。一言で、復活のその日には、私たちのからだ、すなわち内面までも違う人に変えられるのです。

祈り:主よ!卑しく醜いこのからだが将来栄光ある体と聖なるかたちを持つようになることを感謝します。その栄光を慕い求めて生きます。

一言:栄光あるからだ



2010年 04月 04日 (日)

コリント人ヘノ手紙第一15:50-58
主のわざに励みなさい

Ⅰ.死よ(50-57)
 朽ちるものは朽ちないものを相続できず、血肉のからだは神の国を相続できません。それで私たちは終わりのラッパがなる瞬間、一瞬のうちに姿が変えられるようになるのです。「終わりのラッパ」はイエス様が再臨される時になります。イエス様が再臨すれば、死んだ者が朽ちない者に変えられ、私たちも変えられるのです。その時私たちは朽ちないもの、不死を着るようになるのです。この朽ちるものが朽ちないものを着る時には、「死が勝利にのまれた」としるされている御言葉が実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)今まで死はすべての人類の上に君臨し、治めて来ました。しかしキリストが再び来られるその日には死の権威が滅ぼされてしまうのです。従って、罪と律法もその力を失ってしまいます。
Ⅱ.ですから(58)
 主のわざを熱心にしても、労苦がむなしいものになるという被害意識に陥る人が意外にも多いのです。しかし私たちの主は死者の中から再びよみがえられ、将来この世に再び来られます。その日、私たちは朽ちない不死のからだを着て、永遠に天の御国で生きるようになるのです。私たちの労苦は主にあって決してむだではありません。それで私たちは動かされることなく、主のわざにいつも励むものでなければなりません。

祈り:主よ!死の権威を打ち滅ぼし、王の王になられたイエス・キリストを賛美します。この主を信じ、主のわざに励みます。

一言:主のわざに励みます


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