聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2012年 04月 09日 (月)

ヨハネ11:1-16
わたしは彼を眠りからさましに行くのです

Ⅰ.この病気は死で終わるだけのものではなく(1-6)
 ベタニヤに住むラザロが病気になりましたが、彼はマリヤとその姉妹マルタの兄でした。彼ら三人はイエス様を心から愛し、イエス様も彼らを愛されました。二人の姉妹は兄が病気で死にそうなのを見て、ひどく恐れました。彼女たちはイエス様に助けを求めれば、すぐに助けてくださることを信じて、使いを送りました。ところが主は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と言われ、なお二日とどまられました。姉妹たちは兄の病気の前で、死を考え、恐れに捕らわれましたが、イエス様は神様の栄光を考えておられました。死んだ者をよみがえらせる復活といのちの主であるイエス様を仰ぎ見る時、どんな状況の中でも、神様の栄光を考えることができます。
Ⅱ.眠りからさましに行くのです(7-16)
 四日後、イエス様は弟子たちに、「ユダヤに行こう。」と言われましたが、彼らは死に対する恐れのために、行こうとはしませんでした。彼らは光であるイエス様と共にいながらも、心は暗い状態でした。いのちと復活の主と共にいながらも、死の勢力に捕らわれていました。イエス様は彼らに言われます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(11)。イエス様の中での死は、まるで眠りのようなものです。終わりではありません。そのため、誰でもイエス様を信じるなら、死の前でも恐れたり絶望することなく、むしろ平安と望みを持つようになります。

祈り:主の中での死は眠りのようなものであることを信じます。私がこの信仰によって、死の勢力に打ち勝ち、平安と望みで満ちた生活を送るように、助けてください。

一言:死は眠りだ



2012年 04月 10日 (火)

ヨハネ11:17-27
わたしはよみがえりであり、いのちです

Ⅰ.あなたの兄弟はよみがえります(17-24)
 イエス様がラザロの家に来て見ると、ラザロが死に、墓の中に入れられて四日もたっていました。また、多くの人々が二人の姉妹を慰めるためにいました。イエス様が来られたという知らせを聞いて、マルタは迎えに行きましたが、マリヤは家ですわっていました。二人の姉妹は、イエス様がすぐに来られたなら、兄弟は死ななかったことを考えると、やるせなくなり、残念に思いました。イエス様はマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われましたが、彼女は、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。マルタが信じている復活は、観念的なものであり、未来のものでした。彼女には、現在の、実質的な復活信仰が必要でした。
Ⅱ.わたしを信じる者は(25-27)
 イエス様はこのようなマルタに言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(25,26)。イエス様は、今よみがえりであり、いのちです。そのため、誰でもイエス様を信じる者は死んでも生き、今生きていて信じる者は決して死ぬことがありません。イエス様を信じるなら、今私の心にある死に対する恐れと悲しみと絶望に打ち勝つことができます。肉体の死によって全てのことが終わるのではなく、神様の御国で永遠に生きる望みがあります。復活信仰は、遠い未来に、漠然と起きることを信じる理論ではなく、今、私たちの人生の中で、実際に生きて働く力です。

祈り:主よ!私が今、よみがえりであり、いのちである主を信じます。実質的な復活信仰によって、死が与える恐れと絶望に打ち勝つことができるように、助けてください。

一言:今、よみがえりであり、いのちである主



2012年 04月 11日 (水)

ヨハネ11:28-44
もしあなたが信じるなら

Ⅰ.涙を流された(28-37)
 マリヤはまだ、イエス様がよみがえりであり、いのちであることを受け入れることができませんでした。イエス様を見ると、その足もとにひれ伏して、泣きました。イエス様は、マリヤが泣いていることと、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になり、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じました。ユダヤ人たちは、「イエス様が愛するラザロを死なせないでおくことはできなかったのか。」とイエス様を嘲笑しました。イエス様はこのような彼らをご覧になって、涙を流されました。イエス様は、よみがえりであり、いのちである主を見ても、死の勢力の下に支配され、泣いてばかりいる、彼らをはがゆく思われました。
Ⅱ.ラザロよ、出て来なさい(38-44)
 イエス様は、ラザロが葬られている墓に、行かれました。墓はほら穴でしたが、石がそこに立てかけてありました。イエス様が「その石を取りのけなさい。」と言われると、マルタが言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエス様はこのような彼女に言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」彼女は信仰によって石を取りのけると、イエス様は墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」すると死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれ、顔が布切れで包まれたままで、出て来ました。墓の前で、マルタの信仰は揺れ動きましたが、もう一度主を信じることによって、神様が成し遂げられる大きな栄光を体験しました。現実問題の前で、私たちの信仰がゆれ動く時があります。しかし最後まで神様を信じるなら、その栄光を体験することができます。

祈り:主よ!私が現実を見て、簡単に疑いが生じ、絶望していたことを悔い改めます。最後まで主を信じることによって、その栄光を体験しようと思います。

一言:最後まで信じるなら



2012年 04月 12日 (木)

ヨハネ19:31-42
墓に葬られました

Ⅰ.聖書のことばが成就するためであった(31-37)
 イエス様は、全人類を罪から救うために、十字架につけられ死なれました。イエス様が十字架につけられた日は、安息日の備えの日でした。ユダヤ人たちは安息日をきよく守るために、「囚人たちを早く殺して、死体を取りのけるように」とピラトに願い出ました。それで兵士たちが二人の囚人のすねを折って殺そうとしましたが、イエス様がすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折りませんでした。一人の兵士がイエス様のわき腹を槍で突き刺すと、すぐに血と水が出て来ました。これは、「彼の骨は一つも砕かれない。」と「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」という聖書のことばが成就するためでした。イエス様が人類の救い主として来られ、十字架で死なれたのは、偶然に起きた出来事ではなく、すでに聖書に約束されたことが成就した歴史的な出来事です。
Ⅱ.墓に納められた(38-42)
 アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子でしたが、恐れから、人々の前で自分を現わすことができませんでした。しかしイエス様の死を見てからは、勇気が生じ、ピラトにイエス様のからだをひきとりたいと申し出ました。また、夜イエス様のところに来たニコデモも、イエス様の死を見て感動し、高価な香料を持って来て、ヨセフといっしょに、イエス様を新しい墓に納めました。イエス様の死は、恐れの多かった人々に勇気と献身を植えました。イエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちの罪のために、墓に納められました。

祈り:主よ!私の罪のために十字架につけられて死なれ、墓に納められたことを信じます。今、勇気と献身を持って、生きます。

一言:墓に納められたイエス様



2012年 04月 13日 (金)

ヨハネ20:1-18
私は主にお目にかかりました

Ⅰ.亜麻布が置いてあって(1-10)
 週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤはイエス様の墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見ました。彼女はすぐに走って、ペテロとヨハネのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」と言いました。二人の弟子が墓のほうへ走って行って見ると、イエス様のからだを巻いていた亜麻布があり、頭に巻かれていた布切れは、離れた所に巻かれたままになっていました。これは、誰かがイエス様のからだを盗んで行ったのではなく、イエス様がよみがえられたことを、証ししているのです。イエス様は聖書に書かれているとおりに、死者の中からよみがえられました。
Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-18)
 二人の弟子たちは帰って行きましたが、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていました。泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込むと、白い衣をまとっている二人の御使いが座っていました。マリヤはまだ十字架で死なれたイエス様のからだを捜していました。その時、イエス様は彼女の後ろに現れましたが、彼女には分かりませんでした。イエス様は「なぜ泣いているのですか」と尋ねられましたが、彼女はイエス様を園の管理者だと思いました。イエス様が「マリヤ」と言われると、その時になって、イエス様のことが分かりました。よみがえられたイエス様に会った彼女は、喜びに満たされて、弟子たちのところに行って、証ししました。「私は主にお目にかかりました。」よみがえられたイエス様は死の勢力のために、悲しんでいる人々に喜びを与え、復活の証人にします。

祈り:主よ!主は死者の中からよみがえられました。この主を信じることによって、悲しみに打ち勝ち、喜びの知らせを伝える者になります。

一言:主に会いました



2012年 04月 14日 (土)

ヨハネ20:19-31
見ずに信じる者は

Ⅰ.平安があるように(19-25)
 週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、全ての戸を閉じて集まっていました。イエス様はこのような彼らの所に来られ、「平安があなたがたにあるように。」と言って慰めてくださいました。そして手とわき腹を見せてくださいました。また、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」よみがえられたイエス様に出会った弟子たちは内面に平安を受け、大胆に罪の赦しを宣布する使命人となりました。
Ⅱ.信じる者になりなさい(26-31)
 イエス様が来られた時、トマスはいませんでしたが、彼は他の弟子たちからイエス様の復活の知らせを聞いても、信じることができませんでした。自分の目で直接見なければ、また、イエス様の手とわき腹の傷を触ってみないことには、信じられないと言うのです。これは、自分が直接体験してから信じる、ということです。八日後に、イエス様がもう一度弟子たちのところに訪ねて来られました。特に、トマスに、彼が願った通りに行なわせてから、言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27)。よみがえられたイエス様に直接会ったトマスは告白しました。「私の主。私の神。」しかしイエス様は言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」見て信じる者より、見ずに信じる者の方が幸いです。

祈り:主よ!私もトマスのように、自分が体験したものだけを信じようとしていました。しかしこれからは、見なくても信じる者になります。

一言:見ずに信じる者



2012年 04月 15日 (日)

Ⅰコリント15:50-58
勝利を与えてくださった神様

Ⅰ.イエス・キリストによって(50-57)
 今日は、イエス様が私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に死者の中からよみがえられた復活祭です。イエス様がよみがえられたことによって、私たちみんなに復活の望みをくださいました。今、私たちは肉のからだを持っていますが、終わりのラッパが鳴る時、瞬く間に変えられます。ラッパが鳴ると、死んだ人々が朽ちないからだを着てよみがえり、死ぬからだが不死を着る時、このように記録された聖書のことばが成就します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。私たちがこのように叫ぶことができるのは、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださった神様のゆえにです。死の力に打ち勝ち、私たちに勝利をくださった神様を賛美します。
Ⅱ.動かされることなく(58)
 ある人々は、「イエス様の復活は人が作りだした話だ」と言いながら、復活信仰の根をくつがえそうとします。もし復活信仰の根がなければ、世の快楽に陥ってしまいます。また、主のわざに対する意味をなくしてしまいます。復活がなければ、私たちほど憐れな者はいません。しかし私たちは復活信仰を堅くつかみ、いつも主のわざに励む者にならなければなりません。なぜなら私たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているからです。

祈り:主よ!死の力に打ち勝ち、勝利をくださった神様を賛美します。動かされることなく、いつも主のわざに励みます。

一言:勝利をくださった主!


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