聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2013年 03月 25日 (月)

1コリント15:1-4
福音の核心

1.この福音によって救われる(1-2)
 コリント教会の聖徒たちは、使徒パウロが伝えた福音を受け入れ、その中にいました。しかし歳月が流れると共に、世の誘惑と現実的な苦難から、最初の受けた福音を堅く守ることができなくなりました。パウロはこのような彼らに、もう一度福音を知らせました。「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(2)。私たちは、恵みによって、福音を受けました。この福音は、信じる全ての人にとって、救いを得させる神様の力です(ロマ1:16)。それで、私たちはこの福音を考えもしないで受け入れるのではなく、しっかりと保っていなければなりません。
2.私たちの罪のために死なれたこと(3,4)
 パウロは、「聖書の示す通りに、キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえられた」と証ししています。キリストの死と復活は、神様の救いの御業の絶頂であり、人類の歴史の転換期です。キリストが死なれ、よみがえられたことで、罪と死の勢力を打たれ、サタンの支配の下で、うめき苦しんでいる人々を救ってくださいました。誰でも、このイエス様を信じるなら、死の勢力に苦しめられません。永遠のいのちと、平和と幸福を手に入れます。罪の赦しに対する確信と、神様の御国に対する生ける望みを持ちます。ところが、イエス様の死と復活は、偶然に起きた出来事ではありません。聖書に預言された神様の約束が成就されたものです。それで、神様が約束された救いの約束は信頼できる約束です。

祈り:主よ!私のために、十字架で死なれよみがえられたことを信じ、感謝します。私がこの福音をしっかりと保っています。

一言:私のために死なれ、よみがえられたキリスト



2013年 03月 26日 (火)

1コリント15:5-11
復活の証人たち

1.十二弟子に現れ(5-7)
 使徒パウロは、キリストの復活が確かなものであることを、証しするために、その証人たちを挙げています。よみがえられたイエス様は、一番最初のケパ、すなわちペテロに現れ、それから十二弟子に現れました。そして五百人以上の兄弟たちに同時に現れましたが、
その中の大勢の者は当時、生き残っていました。その後、主の兄弟であるヤコブと、使徒たち全部に現れました。彼らはみな、イエス様の復活を見て、彼らの人生が変えられました。恐れに捕らわれていた者が勇気ある者に、利己的な者が犠牲の人に、小市民的だった人が霊的な指導者であり、歴史の創造者に変えられました。
2.私にも現れました(8-11)
 よみがえられたイエス様は、最後に、月足らずで生まれた者と同様なパウロにも現れてくださいました。過去、彼は神様の教会を迫害した福音の敵であり、罪人のかしらでした。しかしよみがえられた主が彼にも訪ねて来られ、それによって人生は完全に変えられました。これは、月足らずで生まれた者のように、足りない者に臨まれた神様の大きな恵みでした。パウロは、この恵みに、感激しました。そして、この恵みがむだにならないために、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました(10)。よみがえられたキリストは、迫害者パウロを、復活の証人に変えられました。一人の変えられた人生は、キリストの復活が確かなものであることを現わす、最も良い証しです。

祈り:主よ!私のような者にも訪ねて来られ、新しい人に変えてくださったことを感謝します。私も、生涯、復活の証人として生きます。

一言:私も復活の証人



2013年 03月 27日 (水)

1コリント15:12-19
もし、死者の復活がないのなら

1.もし、死者の復活がないのなら(12-16)
 当時、ギリシャ哲学、特に二元論の影響を受けて、たましいの不滅は信じていましたが、「肉体は悪い」と言って、肉体の復活を信じない異邦人のクリスチャンたちがいました。しかし、死者の復活がなければ、どうなるのでしょうか。まず初めに、キリストも復活することができません(13,16)。キリストは、私たちと同じ肉体を着て、この地に来られました。神様がこのようなキリストを復活させたのは、死者の復活があることを話してくれます(15)。今日も、クリスチャンと言いながら、死者の復活を信じない人々がいます。彼らは世を愛します。信仰を、現実の成功と成就に至らせる道具や手段として、考えます。彼らの内面には、本当の望みがありません。否定的で、運命的です。
2.もしキリストがよみがえらなかったら(17-19)
 キリストの復活がなければ、私たちの復活はむなしく、私たちは罪の赦しを受けることができずに、今もなお自分の罪の中にいます(17)。永遠のいのちの望みもありません(18)。復活の証人たちは嘘つきになり、キリストのために殉教した人々はみな、滅んでしまいます。特に、偽りの望みに惑わされ、労苦し献身して生きるクリスチャンたちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
 しかしキリストは、聖書に示す通りに、死者の中からよみがえられました。今も、数多くの人々が福音の信仰を信じ、生まれ変わり、罪の赦しの恵みを受け、復活の生ける望みの中に生きています。

祈り:主がよみがえられたので、私たちに、本当の望みになります。この望みの中で、きよい巡礼者の道を歩んで行きます。

一言:一番哀れなのは復活信仰がない、クリスチャン



2013年 03月 28日 (木)

1コリント15:2028
眠った者の初穂

1.初穂であるキリスト(20-23)
 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。「初穂」とは、これから収穫する実がどうなのか、を見せてくれるものです。「キリストが眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」ことは、私たちも将来イエス様のように、よみがえることを、教えてくれます。ある人は、「どうして人は死んでから、よみがえることができるのか」と疑問に思ったりもします。しかし死が人によるものなので、死者の復活も人によるのは、当然のことです。アダムは神様に従わなかったので、全ての人々に罪と死をもたらしました。しかし、キリストは神様に聞き従って、私たちの代わりに、十字架で死なれました。このイエス様を信じるなら、私たちは罪の赦しを受け、永遠のいのちをもらい、復活の初穂であるキリストに従って、よみがえるようになります。それで、私たちが誰の中にあるのか、すなわち、誰に治められているのかは、大変重要なことです。アダムの中にいれば死であり、キリストの中にいるなら、いのちを得ます。
2.万物の主、キリスト(24-28)
 復活の順序は、初穂であるキリスト、その次に、キリストが再臨される時に、キリストにつながった者、すなわちクリスチャンたちです。その後に、イエス様はあらゆる支配と、権威、権力を滅ぼされます。そして一番最後には、人間の最大の敵である死までも滅ぼされます。その時、イエス様は万物の主として、永遠に万物を支配されます。

祈り:主よ!死者の中からよみがえられ、初穂になられたことを感謝します。私もイエス様のように、永遠のいのちを得ることを望みます。

一言:初穂であるキリスト



2013年 03月 29日 (金)

1コリント15:29-34
毎日が死の連続です

1.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは今、復活信仰の中に生きる人がどんな生活をすべきか、を自分の生活を例に挙げて、勧めています。パウロは復活の望みがあったので、さまざまな危険の中でも、福音を宣べ伝えることができました。一言で、彼は毎日が死の連続でした(31)。これは、毎日死を味わう苦難を受けている、という意味です。彼は、キリストに従うために、日々自分を捨てました。彼は、安逸に生きようとする肉体の欲望と世の栄光を求めようとする心を捨てました。彼は、この世では、いくらでも認められて生きることができました。しかし彼には、復活の望みがあったので、この世で自分を犠牲にすることができました。復活の望みの中で生きる生活は、現実逃避の生活ではなく、苦難と犠牲を積極的に担う生活です。
2.目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい(32-34)
 復活の望みがない人々の生活はどうだったのでしょうか。彼らは、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言っています(32)。このような生活は、退廃して、虚しい生活です。この世で生きることで、全ての物が終わりであるなら、できるだけ楽しく生きるのが賢いのです。しかしこの世での生活は、むしろ一瞬の間です。復活の望みの中で生きる人々は、神の御国での永遠のいのちを得るために、しばらくの間生きる世の中で、目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめています。

祈り:主よ!私に復活の望みをくださり、感謝します。私が快楽主義者にだまされずに、目をさまして、正しい生活が送れるように助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2013年 03月 30日 (土)

1コリント15:35-49
復活の栄光

 昔も今も、人々は復活のからだを、今のと同じものだと考える傾向にあります。果たして、私たちが復活の時の姿はどうなのでしょうか。パウロは、種のたとえを通して、これを説明しています。地にまかれた種は死ななければ、生きません。ある人々は、よみがえるのに、何のために死ななければならないのか、と尋ねます。しかしよみがえるためには、私たちは必ず死ななければなりません。死は終わりではなく、復活の前提です。
 また、種はそれぞれ、さまざまな花を咲かせますが、種自体は黒い粒に過ぎません。しかし種から出て来る花は、その種とは比べ物にならないほど、美しいものです。種の形と、そこから出る花の形はそのように違います。今の私たちの体は種に過ぎません。しかし朽ちるもので蒔かれると、朽ちないものによみがえらされます。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされます。一言で、多くの欲望と、生死、老いと疾病に支配された血肉のからだではなく、御霊に属するからだによみがえらされます。死ぬからだではなく、不死のからだでよみがえります。
 私たちはアダムの子孫として、土で造られ、土で造られた者のからだを着ていますが、その日には、イエス様によって、天から出た者のからだを着るようになります。イエス・キリストのように御霊のからだを持ち、永遠に主と共に生きるようになります。

祈り:主よ!卑しく、みにくく、弱いこのからだが、将来、栄光あるかたちに変えられる、その栄光を慕い、復活の望みの中に生きていきます。

一言:天上に属するもののからだ



2013年 03月 31日 (日)

1コリント15:50-58
最後の勝利

1.死よ、おまえのとげはどこにあるのか(50-57)
 今まで、死が全人類の上に君臨し、支配して来ました。人々は死ぬのがこわくて、どうすることもできずに、卑しく罪深い生活をし、死なないようにいろんなことをしますが、結局は死ぬしかありませんでした。しかしその日、キリストが再び来られる日には、死の力が滅ぼされてしまいます。従って、罪と律法もその力を失ってしまいます。
 今、パウロは復活信仰に満ち、死に対する勝利を叫んでいます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。この信仰を持った人は、決して死を恐れません。
2.ですから、いつも主のわざに励みなさい(58)
 世の中は、私たちクリスチャンを、さまざまなかたちで誘惑してきます。このような誘惑の前で、復活信仰がゆれ動き、むなしいものに従って行ってしまいがちです。将来に対する恐れから、自分のことにだけ熱心で、主の御業には消極的になってしまいがちです。しかしこの世は、しばしの間だけなので、世の中の全てのことは結局、虚しいものになってしまいます。永遠の天の御国に持って行けるのは、主に対する信仰と愛だけです。それで、この世で無駄にならないのは、主のために働くことだけです。復活信仰の上に堅く立ち、ゆれ動かされることなく、いつも主のわざに励む者にならなければなりません。

祈り:主よ!死の力を打ち砕き、最後の勝利をくださることを信じ、感謝します。いつも主のわざに励む者になります。

一言:勝利をくださる主


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