聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2014年 04月 14日 (月)

1コリント15:1-4
よみがえられました

1.それによって(1,2)
 コリントの聖徒たちは、使徒パウロが宣べ伝えた福音を聞いて、それによって立っていました。しかし、歳月が流れるにつれ、世の誘惑と現実的な苦難から、初めに受けたその福音をしっかりと保つことができませんでした。パウロは、このような彼らに、自分が伝えた福音を知らせました。なぜなら、彼らがこの福音をしっかりと保ち、考えもしないで信じたのでないなら、それによって救いを得るからです。
2.よみがえられました(3,4)
 パウロは、コリントの聖徒たちに、彼らが受け入れたその福音を、そのまま知らせました。その福音は、キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえられたことです(3,4)。キリストの死と復活は、神様の救いの御業の絶頂であり、人類の歴史の大きな転換点です。キリストが死なれ、よみがえられたことで、罪と死の勢力を打たれ、サタンの支配の下であえぎ苦しんでいる人々を救われました。誰でも、このキリストであるイエス様を信じるなら、死の権威に苦しめられなくなります。永遠のいのちと平和と幸福を得るようになります。罪の赦しに対する確信と神様の御国に対する生ける望みを持つようになります。
 イエス様の死と復活は、偶然に起こった出来事ではありません。聖書で預言された神様の約束が成就したものです。それで、神様が約束された救いの約束もまた、信じられるものです。

祈り:主よ!この罪人のために、十字架で死なれ、三日目によみがえられたことを信じます。私はこの福音をしっかりと保ちます。

一言:キリストはよみがえられた



2014年 04月 15日 (火)

1コリント15:5-11
私にも現れてくださいました

1.ケパに現れ(5-7)
 聖書の通りに死なれ、聖書に示す通りに、よみがえられたキリストは、ケパ、すなわちペテロに現れ、それから十二弟子にも現れました。そして、五百人以上の兄弟たちに同時に現れましたが、その中の大多数の者は今なお行き残っていました。その後、ヤコブと、使徒たち全部に現れました。その後、彼らの人生は大きく変わりました。不信仰と懐疑に捕らえられた人たちが確信を持つようになり、恐れと不安で震えていた者たちが勇気を持つようになり、彼らの利己的な人生は献身的な生き方に変えられました。彼らの人生は、なぜ変わったのでしょうか。イエス様の復活を、しっかりと見たからです。
2.私にも現れてくださいました(8-11)
 よみがえられたキリストは、最後に、月足らずに生まれた者と同様なパウロにも現れました。過去、彼は神様の教会を迫害していた福音の敵であり、罪人のかしらでした。しかし、よみがえられたキリストは彼にも訪ねて来られ、それによって、彼の人生は完全に変えられました。これは、神様の大きな恵みでした。彼は、この恵みを無駄にしないために、ほかの全ての使徒たちよりも、多く働きました。よみがえられたキリストは、迫害者パウロを復活の証人に変えてくださいました。変えられた一人の人生は、キリストの復活を確かなものとして証しする最も良い証言です。私のような罪人が、この時代の復活の証人として生きているのも、キリストがよみがえられたことを決定づける証拠となります。

祈り:主よ!私のような者にも訪ねて来られ、新しい人に変えてくださり、感謝します。私も、生涯復活の証人として生きます。

一言:私も復活の証人



2014年 04月 16日 (水)

1コリント15:12-19
キリストが復活されなかったなら

1.今もなお、罪の中にいるのです(12-18)
 キリストが死者の中から復活されたと、はっきりと宣べ伝えられているのに、これを否定する者たちがいました。ところで、もし彼らの主張する通りに、死者の復活がなければ、深刻な問題が発生するようになります。私たちの宣べ伝えているものも、私たちの信仰も、実質のないものになってしまいます。私たちが宣べ伝えているのは、キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことによって、いのちの救い主になったということです。ところが、キリストが復活されなかったら、イエス様がいのちの救い主という根拠がなくなってしまいます。また私たちは、神様について、偽証した者になってしまいます。何よりも、私たちは今もなお、罪の中にいるのです。罪の問題は、イエス様の十字架と復活を通してのみ、解決されるからです。
2.一番哀れな者です(19)
 この世に望みを置いている人々は、もっと楽に生き、もっと楽しく生きようとします。しかし、私たちクリスチャンは、復活の望みがあるので、キリストのために、全てのものを犠牲にして、キリストの苦難に参加します。福音の御業のために、時間と財産と青春をささげます。ところが、キリストの復活がなければ、この全ての犠牲が虚しいものになってしまいます。すなわち、私たちが、世の中で、一番哀れな存在になってしまいます。しかし、キリストがよみがえられたので、私たちが宣べ伝えるものや、信仰は実質のないものではありません。私たちの罪の問題が全て解決されました。それで、私たちは世の中で、一番栄光ある者であり、幸いな者です。

祈り:主よ!キリストがよみがえられたことによって、復活の望みを抱き、私たちの献身が意味のあるものにしてくださり、感謝します。

一言:幸せの理由



2014年 04月 17日 (木)

1コリント15:20-28
初穂

1.初穂であるキリスト(20-23)
 人々が何と言っても、キリストは死者の中から復活し、眠った者の初穂になりました。「初穂」とは、その後に続いて、どんな実を結ぶのかを見せてくれます。キリストがよみがえられて初穂になったことは、私たちも、将来イエス様のようによみがえる、ということです。「人は死ぬと、どのようにしてよみがえるのか」と尋ねる人もいます。しかし、死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来たのは、当然のことです。アダムが神様に不従順によって、全ての人々に罪と死をもたらしました。しかし、キリストは神様に聞き従って、私たちの代わりに、十字架で死なれることで、罪の赦しと永遠のいのちをくださいました。このイエス様を信じるなら、罪の赦しを受け、永遠のいのちを受け、よみがえりの初穂であるイエス様に従って、よみがえるようになります。それで、私たちが誰の中にいるのか、すなわち、誰に治められているのかが、大変重要なことです。アダムの中にいるなら死ですが、キリストの中にいるなら、いのちを得ます。
2.万物の主キリスト(24-28)
 よみがえられたイエス様は、神様の御国に昇って行かれましたが、時になると、再び来られ、あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様にお渡しになります。このイエス様は、人類最大の敵である死さえも滅ぼされます。死でさえも、再臨される主の前では、何の役にも立たなくなります。再臨される主は、万物の王として、永遠に万物を統べ治めます。

祈り:主よ!死者の中からよみがえり、初穂になられたことを信じます。私が、このイエス様に治められ、永遠のいのちを受けます。

一言:初穂であるキリスト



2014年 04月 18日 (金)

1コリント15:29-34
私にとって、毎日が死の連続です

1.毎日が死の連続です(29-31)
 使徒パウロは復活信仰があるので、多くの苦難と危険の中でも、福音を宣べ伝えることができました。彼の生活は、一言で、「毎日が死の連続」でした。彼は、キリストに従うために、日々自分を捨てました。安逸に生きようとする肉の思いと、世の栄光を求める欲望を捨てました。彼は、世の中で、いくらでも認められ、楽に生きることができたので、大きな誘惑もありました。しかし、彼には、復活の望みがあったので、このような誘惑に打ち勝つことができました。むしろ、主と福音の御業のために、日々、さらに積極的に献身することができました。復活の望みで生きることは、現実逃避の生活ではなく、苦難と犠牲を自ら進んで担う、積極的な生活です。
2.罪をやめなさい(32-34)
 復活の望みがない人々の生活は、虚無主義に基づいた快楽主義です。私たちの人生が今日で終わってしまったり、この世で終わってしまうのなら、虚しくなるしかありません。この虚無を払拭するために、快楽に身を預けるしかありません。復活信仰がなければ、この虚無と快楽に打ち勝つことができません。しかし、私たちには、永遠の神様の御国が待っています。復活の望みで生きることは、この神様の御国に望みを置いて生きることです。復活の望みがあるものは、しばらくの間、生きている世の中に、未練を置かず、むしろ目を覚まして、義を行ない、罪を犯しません。

祈り:主よ!私が、この世の虚無主義と快楽主義に惑わされずに、目を覚まして、義を行なうように、助けてください。

一言:毎日が死の連続です



2014年 04月 19日 (土)

1コリント15:35-49
復活の栄光

1.栄光あるものによみがえらされ(35-44)
 人々は復活を否定するために、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と言います。「復活するのに、死ぬ必要があるのか」と尋ねたりもします。しかし、地に蒔かれた種は死ねば生かされるように、私たちも死ねば、再びよみがえります。死は終わりではなく、復活の始まりです。地に蒔かれた種は、いろんな形の花を咲かせます。また、種は黒い塊に過ぎませんが、その種から咲く花は、その種とは比べ物にならないほどに、美しいものです。死者の復活もこれと同様です。復活の時、私たちは、今のからだとは比べものにならないほど、栄光あるからだによみがえります。朽ちる物で蒔かれ、朽ちない物によみがえらされ、卑しい物で蒔かれ、栄光ある物によみがえらされ、弱い物で蒔かれ、強い物によみがえらされます。一言で、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされます。私たちが体を惜しまず、いのちを惜しまないのも、この望みがあるからです。
2.天上のかたちを持つのです(45-49)
 私たちは、アダムの子孫として、土で造られた者のかたちを着ています。しかし、その日には、イエス様によって、天上に属する者のかたちを着るようになります。イエス・キリストのように、御霊に属するからだを着て、永遠に主と共に生きるようになります。一言で、復活のその日には、私たちのからだ、すなわち、内面までも他の人に変えらるのです。

祈り:主よ!卑しくみすぼらしい、この体が、将来栄光ある体、聖いかたちを持つようになることを感謝します。その栄光を慕い求めて、生きます。

一言:栄光ある体



2014年 04月 20日 (日)

1コリント15:50-58
いつも主のわざに励みなさい

1.死よ(50-57)
 朽ちるものは、朽ちないものを相続できず、血肉のからだは神の国を相続できません。それで、私たちは、終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。「終わりのラッパ」は、イエス様が再臨される時に、鳴り響きます。イエス様が再臨されると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちも変えられます。その時、私たちは朽ちないもの、不死を着るようになります。この朽ちるものが朽ちないものを着る時に、「死は勝利にのまれた」としるされている、御言葉が実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。
 今まで、死は全人類の上に君臨し、治めて来ました。しかし、キリストが再び来られる、その日には、死の権力が滅ぼされてしまいます。従って、罪と律法も、その力を失ってしまいます。
2.ですから(58)
 「主の御業を熱心に行なっても、無駄になってしまう」と嘆いてしまう人は、意外に多くいます。しかし、私たちの主は、死者の中からよみがえり、将来、この世に再び来られます。その日、私たちは朽ちないもの、不死のからだを着て、永遠に天の御国に住むようになります。私たちの労苦は、主にあって、決してむだなことではありません。それで、私たちは動かされることなく、いつも主のわざに励まなければなりません。

祈り:主よ!死の力に打ち勝ち、万物の王になられたイエス・キリストを賛美します。この主を信じて、いつも主のわざに励みます。

一言:いつも主のわざに励みなさい


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