聖書別日ごとの糧   >>   イースター

2015年 03月 30日 (月)

マルコ14:10-26
最後の晩餐

Ⅰ.わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります(10-21)
 イスカリオテ・ユダは、祭司長たちから、「金をやろう」と約束をし、イエス様を引き渡せる機会を伺っていました。このような中で、イエス様は弟子たちと過越しの食事をするために、用意させました。しかし、ユダの裏切りを知っておられたので、祭りを祝う場所は秘密にしました。
 食事をしていると、イエス様は、「あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と言われました。イエス様は、この御言葉を聞いたユダが悔い改めることを、願っておられました。弟子の裏切りによって、イエス様の心はどれだけ痛んだのでしょうか。しかしイエス様は、裏切られる痛みよりも、裏切り者のたましいが破滅に至ることに、もっと心を痛められました(21)。
Ⅱ.これはわたしの契約の血です(22-26)
 過越しの食事をしている時、イエス様はパンを裂き、与え、「これはわたしのからだです。」と言われました。パンを裂いて与えることは、イエス様が罪人たちの代わりにむちで打たれ、肉が避けることを意味します。また、杯を与え、「これは私の血です。」と言われました。杯は、多くの人のために流される血、すなわち、契約を意味します。マタイの福音書では、「罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と言われました(マタ26:28)。イエス様は、過越しの子羊として、私の罪を贖うために、十字架につける苦しみを受けられ、赤い血を流されました。今日の聖餐式は、このようなイエス様の救いの恵みを記念するものであり、この最後の晩餐がその起源となりました(Ⅰコリ11:23-36)。

祈り:貴い主よ!みじめな私のために、尊い血が裂かれ、血を流してくださったとは、その恵みに感謝の涙を流します。

一言:契約の血



2015年 03月 31日 (火)

マルコ14:27-42
ゲツセマネの祈り

Ⅰ.あなたがたはみな、つまずきます(27-31)
 イエス様は、弟子たちの弱さを知っておられます。それで、試練の日に、弟子たちが散らされることを、前もって話されました。そして、彼らがもう一度立ち直れるように、ご自身のよみがえりと、望みと、その後の方向を知らせました(28)。しかしペテロは、「自分は、そんなはずはない。」と答えました。イエス様は、何年か先でもなく、彼がすぐその日のうちに、「三度も、わたしを知らないと言う」と言われました。「三度も知らないという」とは、徹底的にイエス様を否定することを、意味します。しかし、ペテロは頑なに、イエス様の御言葉を受け入れませんでした。彼は、人がどれだけ弱い存在であるのかを、知りませんでした。結局、彼は祈らず、そのことによって、誘惑されました。
Ⅱ.あなたのみこころのままを(32-42)
 十字架の死を目の前にしたイエス様は、深く恐れ、悲しまれました。イエス様は、三人の弟子たちに祈りを頼んだ後、ご自身は地にひれ伏して、切に祈られました。イエス様は、できることなら、十字架の苦い杯を過ぎ去らせるように、と祈られました。しかし、結局は、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られました(36)。イエス様は、三度も同じ内容で、祈られました。血のような汗を流しながら、祈られました(ルカ22:44)。イエス様はついに、全ての羞恥と苦難にも関わらず、積極的に神様の御旨に服従しようと、決断しました。祈りとは、自分を捨て、神様の御旨に服従するための、闘争です。

祈り:主よ!私も、神様の御旨に服従するために、毎日祈りの闘争を担えるように、助けてください。

一言:主よ、御心のままに



2015年 04月 01日 (水)

マルコ14:43-72
わたしはそれです

 イエス様がゲツセマネの祈りを終えると、イスカリオテ・ユダの手引きによって、多くの群衆がやって来ました。群衆は武装していて、宗教指導者たちから差し向けられたものでした。その時、ユダはイエス様に口づけしました。この口づけは裏切りの口づけでした。それを合図に、人々はイエス様に手をかけて捕らえました。すると、弟子たちはちりぢりになって逃げて行きました。また、ペテロは鶏が二度鳴く前に、三度もイエス様を知らない、と言いました。その時になって初めて、彼は自分の弱さを知り、泣きました(72)。
 一方、イエス様は、大祭司の所に連れて行かれました。そこで、宗教指導者たちは、イエス様を裁判にかけました。しかし、それは、イエス様を死刑にするために、訴える証拠をつかむための裁判でした。ところが、彼らは何も見つけることができませんでした。大祭司はイエス様に尋ねました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」すると、イエス様はお答えになりました。「わたしは、それです。」(62a)。イエス様は、大胆にご自分がどんな方であるのかを、明らかにされました。そして、再臨に対する望みを話されました。「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62b)。結局、その御言葉に基づいて、宗教指導者たちは、神聖冒涜罪でイエス様を死刑にしようとしました。イエス様が、死を目の前にしても、ご自分が「神の子です」と、お答えになったのは、祈りによるものです。

祈り:主よ!私も、主に見習って、どんな状況の中でも、主の子どもらしく、はきはきできるように、助けてください。

一言:わたしは、それです



2015年 04月 02日 (木)

マルコ15:1-15
ピラトに尋問されたイエス様

Ⅰ.そのとおりです(1-5)
 宗教指導者たちは、全議会で、イエス様が神聖冒涜罪の罪を犯したと、決定しました。しかしピラトには、「イエス様が、ご自身を王と言っていることで、ローマに逆らっている」という政治的な理由で、訴えました。それで、ピラトは、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねました。この質問には、政治的な罠がありました。それでも、イエス様は、「そのとおりです。」とお答えになりました(2)。ユダヤ人の王は、メシヤの称号です。イエス様は、別の告訴では黙っておられましたが、ご自身がメシヤであることを現わす時には、少しもためらうことなく、はっきりと証しされました(マコ14:62)。これは、イエス様が、すでにゲツセマネの園で、神様の御旨に服従しようと、決断されたからです。イエス様は、沈黙によって、神様に対する信仰と従順を現わされました。
Ⅱ.死刑判決を下したピラト(6-15)
 ピラトは、イエス様には何の罪もなく、祭司長たちのねたみから訴えられたことを、知っていました(10)。それで、祭りの特赦で、イエス様を釈放しようとしました。しかし、彼は法と良心に従って裁判できずに、群衆と妥協しようとしました。結局は、祭司長たちに扇動された群衆の言葉に圧倒され、イエス様に十字架刑を言い渡してしまいました。彼は、何が正しいのかを知っていましたが、正しい行いのできない卑怯者であり、弱者でした。彼は、メシヤを殺した張本人として、歴史のさばきを受けるようになりました。

祈り:主よ!私が、ピラトのような真理を知りながらも、真理の側に立てない卑怯者にはならないように、助けてください。

一言:指導者の責任



2015年 04月 03日 (金)

マルコ15:16-32
十字架につけられたイエス様

Ⅰ.嘲弄に耐えられたイエス様(16-20)
 兵士たちはイエス様を、「邸宅」、すなわち総督官邸の中に連れて行かれました。ピラトの指示によって、イエス様はむちで打たれ、肉が裂け、全身が血だらけになりました(15)。このような状態で、イエス様は再び、無知なローマの兵士たちの嘲弄を受けました。兵士たちは、イエス様に紫の衣を着せ、頭にはいばらの冠をかぶらせ、葦の棒でイエス様の頭をたたき、つばきをかけました。彼らは、あまりにも無知であり、残忍であり、荒っぽい人たちでした。イエス様は、その全ての侮辱と嘲弄に、静かに耐えておられました。
Ⅱ.十字架を耐え忍ばれたイエス様(21-32)
 イエス様は十字架を背負って、何度も倒れながらも、ゴルゴダの丘を上って行かれました。そして、そこで、イエス様は二人の強盗と共に十字架につけられました。十字架の苦痛はどれだけすさまじいのか、死ぬまでに千回以上も気絶した、と言われています。十字架刑は、人類が考案した死刑制度の中でも、最も残忍であり、苦しみのあるものでした。イエス様は、その恐ろしい苦痛に全て耐えられました。また、全ての嘲弄と非ぼうに耐え忍ばれました(29-32)。
 イザヤ53章を読んでみましょう。イエス様が、このようにむちに打たれ、十字架につけられたのは、私たちの罪と咎のためです。彼がむちで打たれることによって、私たちが癒しを受け、十字架で血を流されたことによって、罪の赦しを受けるようになりました。イエス様の十字架は、私たちを呪いとさばきから、永遠のいのちへと移してくれます。

祈り:主よ!虫にも等しい罪人のために、十字架のその全ての苦しみを受けられたイエス様を考える時に、感激の涙を流します。

一言:王の王、主がなぜ苦しみを受けられるのか



2015年 04月 04日 (土)

マルコ15:33-47
死んで葬られたイエス様

Ⅰ.十字架で息を引き取られたイエス様(33-41)
 イエス様は、十字架の苦しみによって、大声を上げて、息を引き取られました。イエス様は、私たちの代わりに、神様から捨てられ、私たちが受ける呪いを、代わりに引き受けられました。それで、私たちは律法の呪いから、贖われました(ガラ3:13)。
 イエス様が十字架の上で息を引き取られると、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けました。神殿は、聖所と至聖所に分けられ、その間には幕が垂れ下がっていました。至聖所は、一年に一度、大祭司だけが子羊の血を注いだ後、入って行って、贖いのいけにえをささげる所です。垂れ幕は、神様と人間の間の罪の障壁を、意味します。しかし、今、イエス様の死によって、幕が裂け、神様と人間の間の罪の障壁がなくなりました。それで、イエス様は完全な宮となられ、人々が神様のところに出て行ける、新しく生きた道になりました。今、誰であっても、どんな罪があっても、これ以上、わずらわしいいけにえをささげる必要がありません。いつでも、どこでも、イエス様の血の力を受けて、大胆に出て行き、罪の赦しを受けることができます。
Ⅱ.墓に葬られたイエス様(42-47)
 イエス様の死を見たアリマタヤのヨセフは、ピラトに、イエス様のからだの下げ渡しを願いました。そして、自分のために、岩を掘って造った墓に、イエス様を葬りました。イエス様が墓に葬られた時、私たちの罪も一緒に、墓に葬られるようになりました(ロマ6:4)。

祈り:主よ!十字架で死なれることで、救いの道を開いてくださった主の大きな愛を賛美します。

一言:罪の壁を取り除かれたイエス様



2015年 04月 05日 (日)

マルコ16:1-20
福音を宣べ伝えなさい

Ⅰ.よみがえられたイエス様(1-8)
 三人の女が安息日の後、最初の日、すなわち主日の早朝、日が上ったときに、イエス様のからだに油を塗るために、墓に行きました。ところが、イエス様の墓に行って見ると、墓の入口をふさいでいた石はころがされていて、墓は空でした。その時、天の御使いが言いました。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(6)。このメッセージは、人類の歴史史上、最も驚くべき、喜びの知らせです。イエス様はよみがえられたことによって、罪と死の下にいる全ての人々を救ってくださる、主とキリストになりました(使2:36)。イエス様の復活によって、私たちは生まれ変わり、神様の子どもとなり、神様の御国に対する、生きた望みを持つようになりました(Ⅰペテ1:3)。
Ⅱ.世界宣教の使命をお与えになったイエス様(9-20)
 よみがえられたイエス様は、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされました。そして、後に、二人の弟子たちに現れました。その後、十一人の弟子たちが食事をしている時に現れました。イエス様は、まだ、イエス様のよみがえりを信じられない彼らに、よみがえられたご自分の御姿を現わされ、彼らの不信仰とかたくなな心を咎められました。イエス様のよみがえりは、イエス様が私たちのキリストであることを現わす最も確実な証拠です。イエス様のよみがえりは、私たちには、救いの力となります。この福音は、絶対的なものです。信じて、バプテスマを受ける人は救いを受け、信じない人は罪に定められます。それで、イエス様は弟子たちに、世界宣教命令をお与えになりました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(15)。

祈り:主よ!主は、死に打ち勝ち、よみがえられたキリストです。私が世界宣教命令を、よく担えるように助けてください。

一言:すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい


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