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2021年 03月 29日 (月)

マルコの福音書14:10-26(24)           <受難週>
契約の血

 イスカリオテのユダがイエス様を売る機会をさがしている間、イエス様は弟子たちに過ぎ越しの食事ができる場所の用意をさせました。そして弟子たちと食事をしている時、弟子の一人がイエス様を裏切ると衝撃的な言葉を言われました。すると弟子たちは一人ひとり「まさか私ではないでしょう。」と言い始めました。イエス様の御言葉を聞いた弟子たちは、もしや自分がイエス様を裏切るのではないかと恐れを抱きました。しかしイエス様がこのように言われたのは、イスカリオテのユダに悔い改める機会を与えるためでした。

 イエス様は一同が食事をしている時、パンを裂いてあげながら、「これはわたしのからだです。」と言われました。これはイエス様が十字架でからだが裂かれることによって、弟子たちが命を得るようになることを意味します。またイエス様は再び杯を取り、感謝の祈りをささげた後、弟子たちに与えました。そして「これは、多くの人のために流される、私の契約の血です。」と言われました。「契約の血」というのは、血をもって契約を保証するという意味します。過ぎ越しの子羊の血は、神様がエジプトに下した十番目の初子の災いから救いを得させてくださいました。そのようにイエス様の十字架の血は、神様の恐ろしい裁きから救いを得させてくださいます。ですからイエス様の血は罪のゆえに裁かれるしかない所から、救いを与えてくださるという契約の血です。イエス様が私のために十字架で御血を流されたことを信じる時、イエス様の約束通り私は罪の赦しを得ることが出来ます。 

 イエス様の十字架の血潮は私たちの命の糧であり、罪の赦しを与える契約の血です。イエス様の十字架を見上げる時、私たちは豊かな命を享受し、罪の赦しの恵みを享受することが出来ます。



適用:罪の赦しをいただきたいですか

一言:イエス様の御血を飲まなければなりません



2021年 03月 30日 (火)

マルコの福音書14:27-42(36)           <受難週>
あなたがお望みになることが行われますように

 イエス様はご自分が十字架につけられる時、弟子たちが皆ご自分を捨てることを預言されました。しかし、ペテロは、皆がつまずいても自分はとつまずかないと言いました。イエス様は、まさにその夜、鶏が二度鳴く前に彼が愛する師を三度知らないと言うだろうと言われました。ペテロは、主と一緒に死ななければならないとしても決して否認しないと言い張りました。他の弟子も皆、同じように言いました。

 イエス様はゲツセマネという場所に来られて、人類の全ての罪を担う十字架の重い荷を感じて深く悩み、もだえ、悲しみのあまり死ぬほどでした。しかしこの時、神様の御前に出て行き祈られました。肉を着ているイエス様にとって十字架は飲みたくない杯でした。イエス様は、神様がこの杯をご自分から取り去ってくださるように祈られました。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と言われました。これは自分の心を父の御心に服従させようとする霊的な戦いでした。

 イエス様が祈りの戦いをされている時、弟子たちは眠っていました。彼らは声を張ることはしましたが、祈りませんでした。イエス様は「シモン、眠っているのですか。一時間でも目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」と言われました。イエス様は三度も神様の御前に出て行き、祈られました。初めは十字架の前で深く悩み、もだえ、悲しみのあまり死ぬほどでしたが、切に祈られた後は、深い悩みやもだえ、悲しみが去って行きました。イエス様は大胆に十字架の苦い杯を飲まれる力と勇気を得ました。この姿は弟子たちとあまりにも対照的です。私たちにも飲むのが負担になる十字架の杯があります。しかし神様の御前に出て行き、切に祈りの戦いをするとき、その十字架を担う力と勇気を得るようになります。



適用:苦難の杯が前にありますか

一言:お祈りしてください



2021年 03月 31日 (水)

マルコの福音書14:43-52(49)           <受難週>
こうなったのは聖書が成就するためです

 イエス様が弟子たちと話しておられるうちに、イスカリオテのユダが剣や棒を持つ群衆と一緒に来ました。ユダは自分が口づけする人がその人だからその人を捕まえて、しっかりと引いて行くように、事前に約束していました。彼は依然としてイエス様に近づいて「先生」と言っています。口づけもしました。人々は一斉にイエス様に手をかけて捕らえました。緊迫した状況の中で側に立っていた一人が剣を抜きました。大祭司のしもべを打って彼の耳を切り落としました。

 イエス様は武装した群れを退ける力を持っておられる方です。願いさえすれば父なる神様に求めて十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐ動員出来ます(マタイ26:53)。イエス様はそれが出来るにもかかわらず、なぜそのようになさらなかったのでしょうか。聖書の御言葉が成就されるためでした。イエス様が宮で教えていても捕らえなかったのも聖書が成就されるためであり、素直に逮捕されたことも聖書を成し遂げるためでした。

 三年半の間、愛で仕えた弟子から裏切られた時、イエス様の心はいかに痛かったことでしょう。まことと愛をもって仕えた人々に逮捕される時、いかに心が痛かったことでしょう。忠誠を誓った弟子たちは、先生を捨てて逃げてしまいました。このように心が傷つき理解できないことを経験する時、深い落胆に陥りやすく、感情のまま行いやすいです。しかし主イエス様は、聖書の御言葉を黙想して神様の御心を考えました。すべてのことが神様の治めと摂理の内にあるということを確信して、黙々と十字架の道を歩んで行かれました。



適用:苦難の前に驚き慌てますか

一言:聖書が成就するためです



2021年 04月 01日 (木)

マルコの福音書15:1-15(2)    <受難週>
ご自分の民に見捨てられたユダヤ人の王

 ピラトの法廷でイエス様が尋ねられたことはこれ一つです。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエス様はこう答えられました。「あなたがそう言っています。」イエス様はユダヤ人の王であるという理由で捕らえられました。イエス様はユダヤ人の王として来られ、ユダヤ人の王として十字架につけられました。だからこそ、イエス様がユダヤ人の王であることを本文の御言葉は繰り返し証ししています。ところがご自分の民は、自分たちの王を拒みました。異邦人であるピラトでさえイエス様を釈放しようとしたのに、ユダヤ人たちは凶悪犯のバラバの釈放を要求し、自分たちの王であるイエス様は十字架につけろと叫びました。「ユダヤ人の王」とはキリスト、メシアの別の呼び名です。マルコの福音書から見たキリストは、ご自分の民に拒まれた方です。イエス様は、人々から背かれ、蔑まれました(イザヤ53:3)。ご自分が愛しておられた人々から嫌われ、見捨てられました。しかし、イエス様は彼らを癒し、教え、食べさせ、救おうとされました。彼らが元々イエス様のことが嫌いで見捨てたのなら、まだわかります。イエス様が乱暴で残忍だったのであれば納得できます。しかし、そうではなく、彼らは自分たちを愛してくださった自分たちの王を見捨ててしまったのです。自分たちに恵みを施してくださった王を十字架につけてしまいました。救いの十字架は、見捨てられたことによって、丘に立てられたのです。見捨てられたことは、失敗したかのように見えます。しかし、その中でむしろ救いの花が咲き、神様の贖いの御わざが完成されるのです。これはイエス様の十字架の福音を宣べ伝えるときにも同じです。見捨てられ、蔑まれ、失敗のように見え、拒まれる中で、むしろ救いの御わざが成し遂げられ、いのちが生かされるのです。逆に、征服し、君臨し、押さえつけ、支配するなら、神様の御救いは成し遂げられません。十字架の道において、見捨てられることを覚悟すべきです。



適用:福音のために苦しみを受けていますか。福音が宣べ伝えられます。

一言:ご自分の民に見捨てられたユダヤの王



2021年 04月 02日 (金)

マルコの福音書15:16-32(26)    <受難週>
屈辱を受けるユダヤ人の王

 聖書は一貫して、イエス様がユダヤ人の王であることを証ししています。ところが、ユダヤ人の王は人々からどんな扱いを受けましたか。ローマ兵たちに蔑まれました。ローマ兵たちはこの世における力を象徴するものです。彼らは力で国々を征服し、力で支配してきました。彼らは力こそ、正義であり、美であり、誉れであると思っていました。彼ら自身も、力の前では絶対的な服従をみせます。逆に弱さは不義であり、恥ずべきものでした。だから彼らは弱い人を蔑み、嘲りました。そんな彼らからしてみると、イエス様は蔑視と嘲りの対象そのものでした。イエス様は宗教指導者たちに負けてしまった弱い人にすぎませんでした。彼らはまことの力を知らず、ローマの剣でこの世を踏みつけました。彼らはこの世のあらゆる権威と力をもっておられる方が、もっとも低くなられたことを知りませんでした。だからこそキリストの国はますます広がりますが、やがてローマは衰退し、滅びてしまいます。力を誇る者はキリストを嘲りますが、その結果、まことの力によって滅びてしまいます。

 通りすがりの人たち、宗教指導者、隣で十字架につけられた強盗たちもイエス様を辱めました。彼らが共通して言った言葉は、「他人を救わず、自分を救え」でした。彼らはイエス様の救いの御わざを認めず、救い主であることを受け入れませんでした。イエス様が与える御救いは、彼らが望む救いではなかったのです。ユダヤ人たちはローマからの独立だけを願い、隣の強盗たちは十字架から降りることだけを願いました。みんな自分が求めるキリスト像、自分が願う救いの形しか認めませんでした。だから、彼らはイエス様を見捨てて、辱めたのです。彼らは真の救いが何だかを知りませんでした。

真の救いとは、神様との関係が回復され、神様の子どもとなることです。罪から救われることです。イエス様は人々から屈辱を受けられましたが、真理が勝利することを信じ、真の救いの道を歩まれました。屈辱を受けたイエス様は、王の王、この世の救い主となられました。



適用:イエス様こそ、私の王、私の救い主です

一言:イエス様を賛美し、礼拝する



2021年 04月 03日 (土)

マルコの福音書15:33-47(34)    <受難週>
どうしてわたしをお見捨てになったのですか

 イエス様が十字架につけられているとき、暗闇が全地をおおいました。主は苦しみと暗闇の中で見捨てられたのです。イエス様は大声で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」マルコの福音書は、十字架上で見捨てられたイエス様の姿を強調しています。弟子たちから、ご自分の民たちから、最後には父なる神様からさえも、見捨てられました。「とうしてわたしをお見捨てになったのですか。(Why have you forsaken me?)」マルコの福音書は、私たちに「どうして」、「どうして見捨てられたのか」を考えさせます。そして、その答えをいくつかの出来事をもって導いてくれます。

 一つ目、真二つに裂けられた神殿の幕(38)。この神殿の幕は、罪人を聖なる至聖所に入れないための幕でした。大祭司だけが一年に一回、贖いのいけにえを捧げるだめだけに入ることができました。しかし、今や、すべての人々に開かれました。なぜなら、すべての人が、イエス様によって聖なる者とみなされたからです。人は自分の罪によって見捨てられるべきでしたが、イエス様が代わりに神様から見捨てられました。それによって、神様と人間の間の幕が、真二つに裂けられ、神様との関係が回復され、和解がもたらされました。

 二つ目、百人隊長の告白(39)。彼はイエス様が捕まえられ、十字架につけられ、死なれるまでのすべてを見守っていた人でした。彼はイエス様のことをこう告白しています。「この方は本当に神の子であった。」彼の告白は、救いの十字架、栄光の十字架に対する勝利の宣布です。

 三つ目、女たちとヨセフの勇気(40,41,43)。女たちとヨセフも、イエス様の十字架を最後まで見守った人たちでした。彼らもまたイエス様の愛を身をもって知っている人たちでした。彼らはこのイエス様の十字架によって勇気づけられました(43)。イエス様の十字架は、彼らに勇気を与え、大胆に宣べ伝え、立ち上がる力を与えます。見捨てられたように見えるイエス様の十字架こそ、能力の十字架、栄光の十字架です。



適用:イエス様がなぜ見捨てられたのかをいつも考えましょう

一言:私の身代わりとなられた



2021年 04月 04日 (日)

マルコの福音書16:1-20(6)       <イースター特集>
イエス様はよみがえられました

 イエス様はよみがえられました。イエス様を墓の中に納めたようにみえる死の勢力ですが、決してイエス様に打ち勝つことはできません。イエス様は神の御子だからです。ところが人々は、十字架につけられたイエス様を墓に行って捜しました(6)。それで御使いは言いました。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」マリアは、イエス様のよみがえりを人々に知らせに行きました。しかし、彼らは信じませんでした。田舎に向かっていた弟子たちが自分たちに現れたイエス様について知らせても、それも、また、信じませんでした(12,13)。なぜ、彼らはこんなにも信じなかったのでしょうか。彼らは死の勢力にとらえられていました。十字架の上で死なれたイエス様の惨い姿は、彼らに大きな衝撃を与えました。ショックがあまりにも大きかったので、イエス様のよみがえりの知らせを聞いても、信じることができませんでした。死んだら全てがおしまいだというこの世の固定観念は、私たちを不信仰に陥れます。そして私たちは、何もできなくなり、嘆き悲しみ、泣き疲れるしかありません。

 イエス様はそんな彼らのところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになりました。イエス様の責めは、人々を固定観念から目覚めさせ、起き上がらせます。不信仰を悟らせてくださいます。よみがえられたイエス様がお責めになったとき、弟子たちは自分達の不信を悔い改めました。そして、よみがえりの証人となりました。イエス様は彼らに、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と命じられました。いのちを得させる福音を、全世界に宣べ伝えるべきです。福音はどのような人々を通して宣べ伝えられるのでしょうか。イエス様のよみがえりを信じる人たちによって、福音は宣べ伝えられます。よみがえりは、しるしであり、能力です。信仰を持って全世界に宣べ伝えることが、弟子たちの使命なのです。



適用:イエス様がよみがえられました。全世界にこの知らせを伝えましょう

一言:よみがえられました!!!


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