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2024年 03月 25日 (月)

ルカの福音書22:1-23(20)      受難週
新しい契約

ユダヤ人達の最大の祭りである過越の祭りという種なしパンの祝いが近づいていました。イエス様の時代には、一日だけの過越の祭りと七日間の種無しパンの祭りを、まとめて「種なしパンの祝い」と呼ぶようになっていました。「種なしパン」とは、パン種を入れないで焼いたパンのことで、エジプトでの奴隷生活から出エジプトしたことを記念するために、八日間の祝いの間に食べました。イエス様は、弟子たちと過越の食事が出来るように、ペテロとヨハネを準備のために遣わしました。イスカリオテ・ユダに場所を知られないよう、隠密に食事の場所を準備させました。過越の食事をしながら、ご自分の死の意味について弟子たちに説明しようとされたからです。

 イエス様は、弟子たちと食事を一緒にしながらパンを取り、これはご自分のからだであると言われました。そしてパンを裂いて与えながら、ご自分を覚えてこれを行うようにと言われました。イエス様が十字架で死なれた理由とその意味を覚えなさいという事です。イエス様は、ぶどう酒も同じように分けながら、この杯はご自分の流される血によって立てられる新しい契約であると言われました。新しい契約は、イエス様が私たちのすべての罪のために死なれることによって、私たちが罪の奴隷から神の子どもとして自由に生きるようになるというものです。古い契約は、律法を守ることによって維持されます。しかし、新しい契約は、イエス様の死が自分の罪のためであると信じることで、享受できる契約です。新しい契約を信じる時、十字架の力が私達を罪の束縛から抜け出させてくれます。新しい契約があるので、私たちはイエス様にあって自由を享受しながら、神様の民らしく生きていけるのです。契約とは、すべての事の確証です。新しい契約を覚えてつかむ人はイエス様に最後までついて行くことが出来ます。



祈り:イエス様、私たちを救うためにご自分の命までもささげて下さり、深く感謝します。あなたの裂かれたからだと流された血は、私のためであったことを忘れないように、助けてください。

一言:イエス様の血による契約



2024年 03月 26日 (火)

ルカの福音書22:24-46(42)      受難週
イエス様の祈り

弟子たちの中で、誰が一番偉いだろうかという議論が起こりました。ところが、イエス様は弟子たちに、人々を支配する異邦人の王たちや人々の上に権威を持つ者と同じになってはいけないと言われました。本当に偉い人は、高い地位にいる人ではなく、他の人に仕える人であると言われました。イエス様は、弟子たちにとっては師ですから、いくらでも仕えてもらうことが出来ました。多くの力を持っておられたので、恩人としてもてなされることも出来ました。ところが、イエス様はむしろ仕える人となられました。イエス様は弟子達に仕え、行くところどこででも、会う人々に仕えました。このように仕える生涯を通して、イエス様は一番偉い者となられました。現在自分のいる位置で仕えて生きる人が真に偉い者です。その事が他人の目にはみすぼらしく見えたとしても、神様は偉大な者として見てくださいます。

ペテロは、自分が一番偉い人だと思っていました。そのため、ペテロはサタンの標的にされました。イエス様はこのようなペテロのために祈り、彼が立ち直ったら、兄弟たちを力づけるように言われました。しかしペテロは自分の弱さを悟ることができず、大口をたたきました。このようなペテロにイエス様は、彼が、鶏が鳴くまでに三度イエス様を知らないと言う、と警告されました。イエス様はご自分の弟子ペテロに望みを置かれ、最後まで仕えてくださいました。

裏切られる夜、イエス様は人間の慰めや安らぎを求めませんでした。 その代わりに、父の御心を求めて祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」イエス様は正直に、汗が血の滴のように地面に落ちるまで熱心に祈りました。イエス様は神様に完全に服従し、祈りの場を通して力を見出しました。



祈り:主よ、私が眠っている弟子たちのようにならず、目を覚まして熱心に祈ることができるように、お助けください。あなたの御心が私の人生で成就するまで祈ることができますように。

一言:私の願いではなく、御心がなりますように



2024年 03月 27日 (水)

ルカの福音書22:47-71(70)      受難週
神の子なのか

ユダは群衆とともに近づき、イエス様を逮捕しようとしました。暗闇の力、“彼らの時”が来たのです。イエス様はユダを叱ることをせず、もう一度考え直して悔い改めるように、最後の機会を与えてあげました。弟子たちはユダの裏切りに対して剣を抜いて反応しましたが、イエス様は違いました。敵に報復しないという神の方法を示されました。イエス様はしもべの耳を癒してあげましたが、捕らえられて引いて行かれました。

ペテロは恐怖に心が支配され、逮捕されたイエス様から遠く離れてついて行きました。そして、イエス様を知らないと3度も否認しました。その時、鶏が鳴きました。イエス様が振り向いてペテロを見つめた時、ペテロはイエス様のことばを思い出しました。彼は自分の罪と弱さを認めるしかなく、泣き崩れました。失敗の瞬間が、神様の御前で自分の真の姿を発見するという、人生の重要な転換点になる場合もあります。私たちは弱く、罪人であり、私たち自身の人間的な力、経験、熱意以上に、神様の恵みを必要としています。

夜が明けると、イエス様は宗教指導者たちの前に連れ出されました。 彼らは、イエス様が神から遣わされた者であることを、内心、分かっていたはずです。しかし、イエス様を殺すことに躍起になるあまり、心は固く閉じてしまいました。自分が神の子なのかと尋ねられたとき、イエス様は「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と答えました(70)。ペテロとは違って、イエス様は、宗教指導者達の尋問の前でも、堂々とした姿勢でおられました。自分のアイデンティティをしっかりと保ち、十字架にかかる覚悟は揺らぎませんでした。



祈り:私は失敗と罪だらけの者なのに、私のために十字架に向かい、私の代わりに死んでくださったイエス様に、心から深く感謝いたします。イエス様が神の御子であることを私は信じます。

一言:神の子、救い主であられるイエス様



2024年 03月 28日 (木)

ルカの福音書23:1-25(3)       受難週
ユダヤ人の王

宗教指導者達は、イエス様を殺すためにピラトのもとに連れて行きました。国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分を王キリストだと言っているとイエス様を訴えました。カイザルに反逆を試みたかのように見せかけようとして、このように訴えたのです。宗教指導者達の訴えを聞いたピラトは、イエス様に聞きました。「あなたはユダヤ人の王なのか」。イエス様は、宗教指導者達が訴えたような政治的な王ではありませんでした。ですから、イエス様がこの事実を否認すれば、無罪となって釈放されることが出来ました。それにもかかわらずイエス様は、「あなたがそう言っています。」と答えて否定しませんでした。このように言われた理由は何でしょうか。それは、世の王ではありませんでしたが、神の国の王であられるからです。聖書の預言どおりに、ユダヤ人の中から生まれた王であられるからです。イエス様は裁判の過程を通して、この事実をはっきりと示されました。ピラトは、イエス様が反逆者ではない事実を知っていたので、イエス様には罪がないと繰り返し宣布しました。しかし、ユダヤ人達は、イエス様を十字架につけろと叫び続けました。ピラトは三回もイエス様は死罪に値しないと言いましたが、彼らは大声でイエス様を十字架につけろと要求しました。彼らがこのように繰り返し十字架刑を要求した理由は、イエス様が、彼らの期待していたような王ではなかったからです。また、イエス様に対する妬みからです。自分の欲望を満たしてくれる王を願う人は、真の王であるイエス様を拒んで十字架につけろと叫びます。しかし私たちは、自分の欲望を満たそうとするよりも、神様が本当に与えようとして下さっているものを頂こうとするべきです。そうする時、神の国の王であるイエス様を喜んで受け入れることが出来るようになり、イエス様の支配を受けながら恵みと喜びを豊かに味わうようになります。



祈り:主よ、自分の欲望を満たそうとする自分の姿を認め、悔い改めます。神様が本当に与えようとして下さっているものを頂くことが出来るように、私に謙遜と信仰を与えて下さい。

一言:神の国を与えてくださるユダヤ人の王



2024年 03月 29日 (金)

ルカの福音書23:26-43(42)      受難週
私を思い出してください

 70kgもする十字架を背負ったイエス様が、もうこれ以上歩けなくなると、兵士たちはシモンというクレネ人を捕まえて、十字架を背負わせました。彼はむりやり十字架を背負わされましたが、十字架の福音の光が彼を照らし、彼と彼の家族は初代教会の福音の働き人として貴く用いられるようになりました。ローマ16:13に出てくるルポスは、シモンの息子だと言われています。大勢の民衆や泣き悲しむ女たちの群れがイエス様のことを嘆き悲しみました。しかし、その時が来ると子を産んだことのない女が幸いだというほどのむごい裁きの時が来るようになります。彼らは、十字架を見ながら同情の涙を流すよりも、自分の罪に対して悔い改めの涙を流すべきです。

どくろと呼ばれているところに来ると、兵士たちは、イエス様を十字架に釘付けしました。むごい十字架の苦しみの中で、イエス様は、ご自分を十字架に釘付けする罪人達を赦すだけでなく、彼らの罪を赦してくださいと、とりなしの祈りを捧げました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」。しかし、指導者たちや兵士たちは、自分を救ってみろ、と言ってあざ笑いました。十字架上の犯罪人の一人は、イエス様に対して悪口を言いました。ところが、もう一人がその人を責めました。彼は、それまでに多くの罪を犯し、十字架刑になるほどの大きな罪も犯しましたが、死の門の前に来て、やっと神様を恐れるようになりました。十字架につけられている今は、もう善を行なう機会もありませんでした。その時、彼は目をイエス様に向けました。そして、一見身勝手にも思える願いをしました。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」。イエス様は、彼の切なる願いを聞かれ、彼のたましいをパラダイスに導いてくださいました。



祈り:主よ、どんな状態にあっても、あなたに向かって「イエス様、私を思い出してください」と祈れることを学びます。私を赦し、パラダイスに迎えてください。

一言:犯罪者も救われたことを覚えてください



2024年 03月 30日 (土)

ルカの福音書23:44-56(47)      受難週
本当に、この方は正しい人であった

 十二時頃になると、全地が暗くなって、三時まで続きました。これは、神様の御子の死を悲しむ宇宙的現象でした。太陽は光を失い、神殿の幕は真二つに裂けました。神殿の幕は、聖所と至聖所を隔てる幕であり、神様と人間の間を遮る罪の壁を象徴しています。この幕が裂けたというのは、イエス様の十字架の死によって人間が神様に出て行ける新しい生ける道が開かれたという意味です(ヘブル10:20)。

 イエス様は大声で、「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言って息を引き取られました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえながら告白しました。「本当に、この方は正しい人であった」。百人隊長は、イエス様の十字架の刑罰を執行した将校であり、全ての過程を全部見守っていた人でした。彼は異邦人でしたが、神様に栄光を帰しながら、本当にイエス様が正しい方であったと告白したのです。この光景を見に集まっていた群衆も皆、これまでの色々の出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰って行きました。たとえ十字架につけられても、イエス様は正しかったのだ、と確信しました。

 議員であり、りっぱで正しいヨセフという人がいました。アリマタヤという町の人で、神の国を待ち望んでいる人でした。彼は悪人たちの計画や行動には同意しませんでした。十字架の事件は、彼の心に大きな感動を引き起こしました。彼はピラトのもとに行って、大胆にもイエス様の体の下げ渡しを願いました。それからイエス様を取り下ろし、亜麻布で包み、まだ誰も葬られていない、岩に掘った墓にイエス様を納めました。十字架は、彼の心の恐れに打ち勝つ信仰を植え付けてくれました。イエス様の十字架は、その周りにいた人々に大きな感動を与え、頑固な者たちさえを大きく変えました。



祈り:主よ、主の死が私の罪のためであることを受け入れます。ただ信仰によって出て行くので、私を受け入れてください。

一言:十字架、変化の力



2024年 03月 31日 (日)

ルカの福音書24:1-12(6)    イースター
イエス様はよみがえられました

週の初めの日の明け方早く、墓に向かって足を速める女たちがいました。彼女たちは、イエス様のからだに香料を塗ろうと墓に向かっていました。イエス様に対する彼女たちの愛には変わりはありませんでしたが、彼女たちの心は死の勢力にさいなまれ、深い悲しみで暗くなっていました。墓に着いた時、彼女たちは石が墓からわきに転がしてあるのを見ました。入ってみると、イエス様の体はありませんでした。女たちが途方に暮れていると、まばゆいばかりの衣を着た二人の人が近くに来ました。そして、イエス様はここにはおられず、蘇られたのだという驚くべき知らせを伝えてくれました。まだイエス様がガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出すように、とも言われました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」。天使たちは、復活のメッセージを伝えながら、なぜ、御言葉を覚えるように言われたのでしょうか。それは、御言葉を根拠にする時、真の復活信仰を持つようになるからです。イエス様が死に打ち勝ち、蘇られたという知らせを聞いて、女たちの暗く悲しかった心は命の光で満ち溢れるようになりました。復活以上に驚きに満ち、喜びにあふれた知らせは、一体どこにあるでしょうか。

女たちは走って行って、この驚くべき知らせを十一弟子と他の人達全部に報告しました。しかし、使徒達はこの話をたわごとだと思い、信用しませんでした。それほど復活は信じがたい出来事でした。しかし、そんな中でもペテロは立ち上がって走って墓へ行き、復活の現場をのぞき込んで見ました。女たちの言う通り、亜麻布だけがあって遺体はありませんでした。ペテロは驚いて家に帰りましたが、本当にイエス様が復活されたとは考えられませんでした。復活は人類の歴史上、もっとも画期的な事件です。



祈り:主よ、私が自分のむなしい考えを退けて、主の御言葉を思い出して信じるように助けて下さい。

一言:イエス様は御言葉の通りによみがえられた


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